セザンヌは自然をこう視た 63.答えはすべて絵の中に

ゴッホ カラスの群れ飛ぶ麦畑 1890

絵は、画家の言葉や、画家の特異稀なる人生のエピソードなどを強力な武器として解説を加えられることが少なくない。画家の言葉や逸話は、それ自体たいへん興味深いからである。

しかし、言うまでもなくここには危うい落とし穴もある。

美術への関心が作品自体から離れ、その周辺の“物語”に集中し過ぎるあまり、作品を見ているようで見なくなってしまうという危うさだ。

“現代のベートーヴェン”ともてはやされた音楽が、あれほど多くの聴衆をコンサートホールに動員していたにもかかわらず、現在では殆どきかれなくなってしまったのは何故か?

人間は所詮“純粋な耳”には成り切れないし、またその必要も無いのだが、作品の周辺にある物語を過剰にクローズアップしたために作品の純粋な価値を見誤り、作品を純粋に楽しむ妨げとなりかねない状況に、僕たちは注意する必要がある。

「この絵を描いて数週間後に画家は自殺したとされるが、最近の研究では…」などと情念的な“説明”をするばかりで、絵の個性や造形的な工夫にはまったく無頓着だとしたら、何ともやるせない。

たしかに、ポスト印象派の画家・ゴッホは、手紙や人生もよく知られているし、僕自身、彼の言葉から多くを教えられた。

しかし、彼の場合も、人生や手紙が絵を解説し、逆に絵が人生や手紙を解説するとか互いに補い合っているとかいうのでなく、先ずは、手紙や人生が“別の独立した作品”として強力な価値を放っているとみた方が、ゴッホに対しても彼の作品に対してもその人生に対しても、最もフェアーな姿勢ではあるまいか。

さて、その点、私たちのセザンヌに話を戻せば、彼は、絵画をめぐるあらゆる“物語”を廃し、作品のみのパワーによって絵を制作しようとした最初の画家と呼ばれるべき存在だろう。

ところが、そんなセザンヌですら、彼の人生や手紙などに残された言葉の引用によって当然のようにその作品が解説される、といったことが今でも時折り見受けられる。

なるほど、もしも彼の絵画がその自立的な価値を謳い上げたものであるなら、そうであればあるほど、その作品は本来、“作品を通してのみ”解説されなければならないのではないか。にもかかわらず、他の画家たちと同じような方法で ―対話や手紙の引用などの“語り”によって― 彼を論じようとすると自己矛盾に陥り、彼の投げかけた教訓に反することになりはしないか?

セザンヌ作品を、いっさいの周辺データから解放し、作品自体の持つ内在的な価値、飽くまで造形的な論の展開によって、どこまで解き明かすことが出来得るのか、また、そうして導き出された結論が、最初の前提や世間一般のセザンヌ観と、果たして整合するのかしないのか ―そんなやり方の方が、僕には、たいへんスリリングで潔いと感じられる。そもそも、そうした素朴な疑問がひとつのモティーフとなり、このエッセイは試みられている。

結論はまだ見えないが、その試みによって、「なぜ水浴図が描かれたのか」について、もしかすると、よりダイレクトで明快な回答が得られるかもしれない。

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