セザンヌは自然をこう視た 37.抽象化されるヴィクトワール山、その意味

注目したいスポットを目立たせるために、他を均質化し「平面化」してゆくという手法。前回はそれを『サント・ヴィクトワール山とシャトー・ノワール』の「建物」を通して考えてみた。では、この絵のもうひとつのスポットである「山頂と空」の方はどうか?

このスポットも「建物」の場合と同じ要因で  -つまり“振動・生動するタッチ”で画面全体が均質化されているため風景の仔細な情報に眼が行かず、中央の明るくかかれた「山頂と空」の辺りへと自然に眼を向けてしまうようになっている。これは以前、画面中央がやはり明るくかかれた『デ・ローヴから見たサント・ヴィクトワール山』について述べた話と同じだ。

サント・ヴィクトワール山とシャトー・ノワール 1904-06

こうして僕たちは、『サント・ヴィクトワール山とシャトー・ノワール』のふたつのスポット、すなわち「建物」と「山頂と空」とに眼線を交代させ、恐らく、実際にセザンヌがこの風景に臨んだのと同様の臨場感を獲得するのである。

-「抽象化」されることによって、「具象画の属性」がより活き活きと実現される絵画。あるいは、「具象画の属性」を追求するほどに「抽象」的になっていく画面。

例えば、最晩年のヴィクトワール山シリーズで最初に見せた『デ・ローヴから見たサント・ヴィクトワール山』を想い起こしたい。タッチに“粗密”のある絵だったが、この作品も、振動・生動するタッチによって画面全体が覆われていたため、タッチの“密”な「山のふもと」の辺りをごく自然に凝視してしまうという作品になっていた。

デ・ローヴから見たサント・ヴィクトワール山 1904-06

そして、例えば、初めてこのエッセイに登場する上の作品。よく見ればここでも、やはり同じ仕組みによって、(山の方に注意が行かず)「道」が奇妙なほど目立たせられている。

… という具合に、最晩年のヴィクトワール山シリーズの一枚一枚をよくよく眺めていくと、大変興味深いことに、シンプルなその構成によって、あたかも他の環境を同じにして一ヶ所のみ条件を変えた“実験室”のような体裁をとっていることに気づかされるのである。

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