セザンヌは自然をこう視た 30.20年後のヴィクトワール山

デ・ローヴから見たサント・ヴィクトワール山 1904-06

さて、「具象」とは何か。「抽象」とは何か。このふたつは対立するのか、しないのか。

取手駅での体験談の真偽(?)はともかくとして、ふたりの美大生の会話に滲み出た「具象vs抽象」の相克、葛藤。それは、美術の歴史を通じても幾度となく繰り返され、そして、今を生きる画家たちの個人史においても、無視できないテーマとして横たわり続ける大きな問題であることは間違いなさそうだ。

サント・ヴィクトワール山 1885-87

これまでの話を踏まえて、「具象画」と「抽象画」それぞれの特性をシンプルにまとめると ―「現実世界との対比」を表現の前提・核とするのが「具象画」であり、色やかたちなど「絵の要素」だけに注意を向けさせるはたらきがあるのが「抽象画」である、となるのだろうか。

さて、セザンヌの絵は、当然のことながら「具象画」である。

ところが、それでは、例えば 、今回ひとつ目に掲載した『デ・ローヴから見たサント・ヴィクトワール山』をみてみる。この頃の(最晩年の)セザンヌは、こういう感じのヴィクトワール山をいくつもかいていたのだが、その20年ほど前にかかれた、ふたつ目の『サント・ヴィクトワール山』などと比べてみると、どんなにか違った作品になってしまったこと!

「具象」的な木や橋や時刻といった“説明”は、すっかり削ぎ落とされてしまっている。なるほど確かに、ここまで来ておきながら、なぜ彼は「抽象画」をかかなかったか、という実感を抱かざるを得ない。

一体“セザンヌは、なぜ「抽象」へ至らなかったか”…

いよいよ、その解明をするときとなった。答は、既に気づいての通り。

ただし、その時代には「抽象画」という考えが存在しなかったから、とか、「抽象」に至る前に画家が亡くなってしまったから、というのは、上手い回答だけれどもNGだ。今はもっと別の答を探したい。 …と思ったら、時間切れ。

▶目次へ