セザンヌは自然をこう視た 16.セザンヌにみるアンビヴァレントな感覚

当初すぐ終えるつもりでいたこのエッセイも、ずいぶんと長い道のりを歩くこととなってしまった。

ここ4、5回は、いくつかのセザンヌ作品を通じて、彼に固有の「部分と全体」の有機的なつながり、別の言い方をすれば、「部分と全体」が大変ピュアに拮抗している様をみてきた。

そうしたことが、頭でなく感覚でわかるにつれて、初めは「歪み」「不安定感」として、いわばマイナスにも感じられたセザンヌの絵の特徴が、逆に、活き活きとした躍動の表現としてプラスにも感じられてくるのはどういうことか。

しかもそれが、様々なカメラ・アイ映像に取り巻かれて生を受けた僕たちにとって、人間が自分の肉眼によって(=「時間的な推移」を通じて)外界を眺めることへの回帰と懐かしさを促す“秩序”として感じられてもくるのだから、不思議なものである。

結局、セザンヌは、自分の絵で何を言いたかったのか?

躍動する「部分」的な眼差しの動きか、それとも、ゆるぎない「全体」観の構築性か。

赤いベストの少年 1890-95

ここ数回の話をまとめると、次のようになると思う。

すなわち、彼はそれらの二者択一でなく、もっと困難な答を探す道を選んだのだ、と。要するに彼は、「部分と全体」が“拮抗する状態”を、人間が外界を知覚する働きにまで掘り下げて取り出してみせようとしたのだ、と。

考えてみると、たとえば、醜く美しいとか、悲しいけれど嬉しい、甘く辛い(スイート・ビター)、などなど、正反対の価値が共存するような感覚。人々はそれをアンビヴァレントambivalentな感覚と呼ぶが、それを論理的に説明しようとすれば、なかなか 難しい。言葉の上で矛盾が生まれるからだろうか?

しかし一方で、音楽や小説などの世界では、作曲家や作家にとって何とも魅惑的な表現目的だ。むしろ、アートだからこそ表現でき得る世界かもしれない。しかも、時にはそのような名状し難い感情・感覚を絶大な力で僕たちに訴えかけてくるのだ。

ともかく、セザンヌ作品にみる躍動する「部分」的な眼差しと、ゆるぎない「全体」観の構築性の共存。これこそまさに、アンビヴァレントな感覚の注目すべき達成、それも、きわめてピュアな達成であることを、ここで確認しておきたい。

そして、これからは以上を踏まえて、セザンヌの魅力に迫るためにもうひとつの僕なりの仮説をたて、さらに突っ込んだ話ができればと考えている。

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