セザンヌは自然をこう視た 15.プロヴァンスの山が歪んでいる理由

セザンヌ作品の空間のつくり方。その特異性について、「部分」と「全体」の有機的な必然性の探求(=「部分」と「全体」の“つじつま合わせ”)を手がかりに、ふたつの絵を見てきた。 彼の『曲がり道』や『エスタックの海』は、それを考える上でとてもわかりやすい例だったのかも。

が、もっと詳しくみていくと、セザンヌの絵からは、その隅々、一筆のタッチにいたるまで、「部分」と「全体」の有機的な必然性を感じずにはいられない。

プロヴァンスの山  1886-90

たとえば、前々回に載せた『プロヴァンスの山』。

細かい部分に眼をやれば、たとえば、左上にグッとのびる何とも魅力的な木。一方、それにクロスオーヴァしている背景の山の稜線と色が、木の後ろ側だけがうすくなっているのは、セザンヌの風景作品に時おり見られるパターンだ。

ところで、僕たちが現実のこうした風景 ―近景に木があり遠景に山がある、というような風景― を眺めるとき、そもそも、いったい何に感動しているのか?

おそらく、遥か彼方でじっと身じろぎもしない山の存在と、近くにのびる木の逞しい上方運動との対比。その“関係”に感動しているのではないか。つまり、木のもつ上方への力と、木よりもずっと遠くに山がある、その関係、もしくは、その対比によって生まれる美しさ、と言ってもいいのだろう。

セザンヌの絵では、それを強調するために、勢いよく描かれた木の真うしろだけ山はうすく塗られている。いわゆる空気遠近法だ。しかし一方、その山の存在にも自分は眼線を走らせているんだと言わぬばかりに、山のほかのところは再び濃く描かれている。 

こうして彼は、自分は木と山の双方に眼を向けているんだ、と言うことに成功する。

これが、もしセザンヌの生きた時代の絵画の価値観、トンカチ頭の観方でこの作品を眺めると、次のようになる。

すなわち、木の後ろ側だけ山がうすくなっているのは、霧が発生しているとか、さもなくば、(空気遠近法によって)そこだけ山が遠くに存在し、山頂付近から右側の部分は山が近くに存在しているなどという…つまり、いびつに歪んだ山、そして、いびつに歪んだ空間を彼が描きたかった、ということになってしまう。

このようにみてくると、絵を前にして、一見、歪んでいるかのようにも見えたイリュージョンが、じつは、人間の「眼線の動き」に即して、きわめて誠実周到に描かれたためにこうなった、ということがわかってくるのである。

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