『曲がり道』を見ながら、セザンヌが“「部分」と「全体」との有機的な必然性を求めて絵を描いた”意味を考えてきた。
さらに彼の風景作品から、もう一枚。
いつものように、くどくど言わずとも、画家の「部分的な眼線の動き」が海の広がりと大きさを追いかけた結果、水平線を、何とも大きく高く持ち上げてしまったことは明瞭である。
「これではまるで、津波の様ではないか!」と文句を言う絵の先生がいるかもしれない。さらに追い討ちをかけるべく、「左側に生い茂る木々の後ろの海の扱いは何なのだ。 もっと丁寧にぬれ!色がチガッテいる」などと…。
たとえば、セザンヌの影響下に画かれたであろう私自身の旧作と比べてみても― 若気の至りでまことにおこがましいのだが ―明らかである。
このように、一見「セザンヌ風」と思えても、ずいぶん空間の扱いが違っている作品が世には数多く存在するのである。