セザンヌは自然をこう視た 13.「道シリーズ」で描きたかったこと

曲がり道  1879-82

セザンヌの風景作品のなかに、「道シリーズ」というのがある。

たとえば、上の「曲がり道」をみると、何とも愛くるしい道のカーヴの動きが、まず眼に飛びこんでくる。そして、やや大きめに描かれた遠景の家々。

その魅力をわざと意地悪く捉えて、「こんなに家が大きいのなら、道はもっとこっちに向かって末広がりに描かなければいけない。」などとケチをつけたくなる人がいても不思議はない。子供じみた描き方をするな、と。

なるほど確かに、上空から俯瞰した眼線で道を細長く描くやり方は、子供の絵によく見られる。子供の眼線は大人のそれよりずっと低く、高い所に登りでもしない限り道が細長く視えないはずだが、「道は細長いという体験」によって視ているので、こう描かれるのだそうだ。

セザンヌは、子供のようにかきたかった! なぜか?

これは憶測ではあるが、きっと、家々や木々等が立ち並んでいる、そのなかに“スーッ”と伸びていく道をかきたかったのではあるまいか。この絵がかかれているまさしくその瞬間、彼の(「部分」的な)眼線は、遠くの家並みのあいだに細長く伸びる道を追っていたはず。

眼前にひろがる「全体」のなかで、立体的に林立する家々とそこに伸びていく道。そんな風景に対し、セザンヌは自身の「部分」的な「眼線の動き」に忠実であろうとし、(家を大きく)道を細長く描いた。そうして、とどのつまりは、「部分」的な眼線の活き活きした躍動を犠牲にせずに「全体」観を再現することに成功したのではないだろうか。

しかし、その試み、その“つじつま合わせ”の凄まじいこと!

そうした格闘のいっさいが、前に述べた“「部分」と「全体」の有機的な必然性を追い求めてセザンヌが絵を描いた”という、抽象的な言い回しになってしまったことの意味なのだ。

しかし、そうした“つじつま合わせ”をしようとしたために、伝統的な絵画の約束事からは全く“つじつまの合わない絵”が、たくさん出来あがった。

要するに、道は細長いと感じる子供的な「体験」とともに、より重要な要因として、彼特有の「能動的」な眼線、つまり自身の「眼線の動き」への誠実さに突き動かされて彼はこの絵を描いたのではなかろうか。

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