セザンヌは自然をこう視た 5.「厚塗り」から「うす塗り」になった理由

たとえば、セザンヌの奔放な「筆の動き」。それは、なにも晩年だけの特徴でなく、生涯にわたって一貫している。

青い帽子の男(部分) 1865-67

彼の絵は、ごく初期を除いて、バロック的な筆致から始まる。初期の画面は、ときに、ナイフや筆によって分厚く塗り込められており、それはクイヤルド技法と呼ばれるが(上の『青い帽子の男』をみてほしい)、こうした作品は、絵筆を持ち始めた頃の、絵の具の輝きにとり憑かれている若きセザンヌを彷彿とさせずにはおかない。

ところが、印象主義の影響で画面が明るくなり独自のスタイルを確立するにつれて、次第に絵の具の厚みはうすくなっていく。以前、セザンヌの絵の構築性について述べたが、時代を追うごとに彼の絵の構築感が堅牢になればなるほど、不思議なことに、絵の具自体の堅牢さは消えてゆく。

そうして、うすく塗られた絵の具は、初期にみられた工芸的な物質感・重量感から、我々を解放してくれるかのような印象を与える。それはあたかも、モティーフに向けられた画家の「眼線の走らせ方」のみに、鑑賞者の眼差しを軽やかに誘っているようでもある。 

『青い帽子の男』では、我々は「絵の表面」に眼を走らせていたのに対し、後年の作品では、画家の眼前に存在したモティーフたち、いわば現実の「対象物の表面」に眼を走らせているかのような感覚をおぼえるのだ。

ここで、ひとつの仮説を立てよう。

つまり、セザンヌ作品に認められる「筆の動き」は、彼の「眼の動き」、「眼線の動き」である、と。 また同時に、人間一般の生身の「眼の動き」、「眼線の動き」であると。すると、セザンヌの絵をめぐる様々に派生したままの様々な疑問―「セザンヌの絵の、どこがいいのかわからん」というような素朴な疑問もふくめて―が解けていくように思える。

そもそもセザンヌのマニエラ(手癖)は、いわゆる職人芸、名工(アルティザン)としての技術ではない。また彼のマニエラは、でたらめな腕の動きにまかせて助長され、偶発的・主観的な表現を求めた結果の軌跡でもない。それは、一個人の気まぐれな趣味嗜好などでなく、そういった事を超えて、最終的に、僕たち「人間一般の眼線の動き」と重なるものなのである。

ますます面白くなってきた。

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