セザンヌは自然をこう視た 4.光のアトムとフォルムのアトム

なぜか前回はモネの話に終始してしまったが、要するに彼は、自然から「光のアトム」のようなものだけを取り出そうとしたのではないだろうか。

プリズム(=分光器)を通過した太陽光が虹色の原色に分解されるという当時の科学的な発見に、彼は子供のような心で驚いたのかもしれない。世界は7つの色でできているのだと。なら、それに近い色を使って絵を描こうと。そうして、モネたち印象派は、「光のアトム」(=色彩のアトム)に命を吹き込むかのように―あるいは、フォルムの呪縛から解放された色彩の独自の力を謳歌するかのように―それらを活き活きしたタッチで描き出したのではないか―

それに対して、セザンヌは?―

彼は、「光のアトム」もさることながら、自然から「フォルムのアトム」たちを取り出し、そこに命を吹き込むかのように、それらを活き活きしたタッチで描き出したようにみえる。それが、「自然を円筒、円錐、球として扱う」と語ったとされる彼自身の言葉につながっている、と思う。

もちろん、絵をかたちづくる大切な要素である色彩を彼が無視したわけではない。しかし、色彩を主役にしたモネたち印象主義と比べると、“印象”を追いかけることによって失われてしまった絵画の構築感、フォルムというものがセザンヌにおいて、より注目されるのは当然だ。

こうして、モネもセザンヌも、ともに色彩とフォルムのそれぞれをそれぞれの方法で、“活き活きとしたもの”に仕立てたようにみえる。

でもここで、ふと立ちどまってみると、こんな分析は―詰まらん、とは言わずとも―やや角ばってはいないだろうか? なにか図式的すぎる…と。美術を、ことさらワクのようなものに当てはめていくのは、ときに美術の本質を見誤らせることにもなりかねないのではあるまいか。

というわけで、次回はセザンヌの絵について僕なりの仮説を立て、これまで話してきたことをもう少し正確に言葉にしてみたいと思う。

庭師 1900-06

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