モネが「瞬間」でものを視た世界だとすれば、セザンヌは「時間的な推移」を通してものを視た世界ではないか、そんな話だった。
それはともかくとして、では、このふたりの関係はと言うと、セザンヌがそのスタイルを確立するために、モネ(やピサロ)ら印象派から強く影響されたことはよく知られている。実際セザンヌは、「モネは単なる眼に過ぎないが、すばらしい眼だ」と語ったとされる。この言葉は、モネに対する賞賛と批判(愛憎)がひとつに合わさっているかのようで、印象派の衝撃を起爆剤として、わが道を進もうとするセザンヌの複雑な思いが伝わってくる。
彼に限らず、他のポスト印象主義の画家たち(ゴッホ、ゴーギャン)や、その後につづく20世紀はじめに活躍した画家たちの多くは、みな多かれ少なかれ、モネから影響を受けている。そして彼の作品は、今日でもなお、美術フリークから一般の人々にいたるまで、じつに幅広い層を絶大な力で魅了し続けている。
確かに彼の作品を視ていると、この世界が光にあふれていること自体が驚異であり奇跡であることを感じないわけにはいかない。(今はモネを話すときではないので、この辺でやめにしたいが…)
そんな魔力を放つモネの作品が生み出されるきっかけには、もちろん、19世紀にひろまり始めた写真の影響もあったのだろう。
写真技術の完成が、記録的・再現的な描写の伝統に生きていた当時のヨーロッパの画家たちに深刻な危機感を与えたことは、想像に難くない。当時の画家たちは、このままいけば自分たちの仕事が写真に取られてしまうのではないか、と真剣に考えた。
その結果、ざっくり言えば、写真の持つ記録性・再現性とは別の表現の可能性を、美術というジャンルに求めるようになった。それ以降、ヨーロッパに展開する美術の豊かな実りは、大きくみれば、写真の発明という「災い」がすべてのきっかけだった、と言っても言いすぎではないのだろう。と同時に、そこからまた、美術の「難解さ」が始まったことも事実だが。
それにしても、一瞬の印象を追いかけたモネが、当時のモノクロ写真に対して「色彩の奔流」とも言えるような独自の絵を発明して勝負しようとした姿勢は、すばらしいと思う。
「瞬間」で外界を捉え(るべく発達することとな)る写真の持つプラス面と、当時の技術的な限界であったモノクロによる再現という写真の持つマイナス面。 そのふたつをしっかり彼は感じ取り、総合し、独自の方法で自己の栄養としていったのだと言わざるを得ない。
またモネの話になってしまった…。