セザンヌは自然をこう視た 2.果物皿が丸すぎる理由

このあいだは、ついセザンヌの話になってしまった。しかし、絵について話題になるたびにセザンヌを引き合いに出していたことを思えば、こういうメモもあながち意味のないことではないのだろう。

さて、セザンヌが「能動的な眼線」だとすれば、モネは「受動的な眼線」による絵だというようなことを、前に書いた。それについて、もう少し説明したい。

僕たちがものを「視る」ためには、常に時間が必要である。というのも、ものをしっかり「視る」には絶え間なく眼線を動かさなければならず、本来的に時間がかかるからだ。ほとんど意識することなどないのだが、ものとものとの奥行きを認識するのにピントを変えるためにすら、我々は時間を必要としている。 

たとえば、いま僕の眼の前のテーブルに、白いコーヒーカップがあり、そこには熱いコーヒーが注がれている。僕がこのカップを「視る」とは、どういうことか。 カップの側面に眼をやり、こういうかたちをしているんだと認識した上で、カップの上の面に眼を走らせる。そして、真上から覗けばきっと丸いかたちで、中には褐色のコーヒーが香っている、というような感じで、(あるいは、人によって順番は逆かもしれないが)眺めているはずだ。

人間の眼は、たとえばコンパクト・カメラのように、全焦点(=ピントがすべてに合う)のレンズが一瞬にしてあらゆる被写体をキャッチするかのように眺めるわけにいかないのだから。


ミルク入れとグラスのある静物 1900頃

そのように本来的に「時間的な推移」のなかで知覚される人間の視覚を、印象派のモネは、あえて「瞬間」に限定した。それによって、外界の一瞬の光が人間の視覚経験に対して、どのような刻印を与えつつ、なおかつ豊かな色彩的拡がりを持ち得るか、彼はそんな世界を表現したようにみえる。

セザンヌは、むしろ人間の眼が「時間的な推移」を通してどのように外界を視るか、その僕たち人間の本来的な立場に徹して、それを純粋に取り出してみせてくれたように思える。たとえば、セザンヌの静物画からは、先ほどのコーヒーカップの例で述べたような「眼線の動き」の痕跡が生々しく伝わってくる。

この絵で言えば、お皿は上から視ればきっと丸く、そこにいくつかの果物が容れられ、それらがグラスなどとともに四角いテーブルに置かれ…といったふうにだ。

そもそも人間の視覚は、「瞬間」でものを視ているか、それとも「時間的な推移」を通してものを視ているかは、曖昧な状態である。それを、モネとセザンヌというふたりの画家が両極に分かれて、それぞれの感性と考え方で純粋化したとも言えるのではないだろうか。 

何だか面白くなってきた…。 

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