さて、前のページの内容を言い換えると、20世紀の後半になって対極にあるものとして扱われた「具象」的なものと「抽象」的なものとの対立すら、セザンヌにおいてはいわば“無意味な対立”として、きわめてラディカルなその調和(ないし破綻)が図られており、のみならず、彼の絵を眺める者は、そこに至るまでの相克の追体験、眼線のダイナミズムを力強く求められることになるのだ、というような話だった。
では、そうした彼の独自性とはいったい“何に由来する”のか? 「能動的な眼線」とは、そもそも何なのか?
そんな無鉄砲な推理を、しばらくのあいだ楽しんでいきたい。
セザンヌはヴィクトワール山シリーズで、極端な「奥行き」感を極端な「平面」化によって表現しようと試みた。また、これがセザンヌという画家の真骨頂なのだとも以前言ったが、ここから推測できるのは、セザンヌの性癖 -正反対の要素、対極にある要素によって、造形上の問題を解決しようとする性癖だ。
彼は恐らく絵を描くのが大変好きで、制作上の壁に直面したとき、いくつかの解決策のうち最も困難な道、対極にある方法を常に選びたくなってしまう、という人だったのかもしれない。少なくとも、そう仮定してみることは、僕たちの話に、ひとつの新しい観方を提供してくれそうだ。
難しい話ではない。代表作の数枚を一瞥するだけでいいのである。
例えば、本来なら、エロチックな豊かさで人々を魅了すべき裸婦。にもかかわらず、彼の場合は、水浴図の数々にみる非官能的、あるいはグロテスクな裸の群像画。
穏やかな温かみで満たされるべき画家の妻の像。にもかかわらず、無機的・無表情の、何ともつまらなそうな“多数の”セザンヌ夫人の肖像画。(彼の妻は、どんな様子で何を考えてポーズしていたのか、聞いてみたくなる。) 遥か彼方に静かにたたずむべき山の風景。にもかかわらず、落着きなく躍動し生動するヴィクトワール山シリーズ。
歪んだ机と、その上に乗る歪んだ器、歪んだ空間。そして、逆に、その上に乗っている、幾何学的でまん丸のリンゴたち…。
人間の深く険しい内面表現を、顔の綿密な表情描写によらず、逆に、その省略と、画面をかたちづくる構成力、色彩効果によって抉り出そうとする、最晩年の肖像画の作品たち。
通常とは逆のやり方。何とも偏屈な画家-。