セザンヌは自然をこう視た 46.『水浴図』の女たちが“醜悪”な理由

平らな絵をめざすから平らなモティーフを選ぶ(モネ)、というのでなく、平らな絵を奥行きのあるモティーフで描いてみようとするその感性。より高次な解決が得られるかもしれないが、得られないかもしれぬ、そんな冒険心。

そんな子供のような冒険心、あるいはヒロイックな冒険心が、一貫して彼の制作に通奏低音のように鳴り響いており、それが、代表作のいくつかを一瞥するだけでみてとれる、というのが前回の話だった。

では、その“性癖”と「能動的な眼線」とはどのような結びつきがあるというのだろうか?

以前、(私事ではあるが)見つからない絵の具のチューブ(フーカスグリーン)を探している状況を例にあげ、一点を凝視しながら、絶えず他にも眼を向けていこうとする眼差しについて触れた。つくり酒屋でめくるめく酒瓶を前にして、お気に入りの銘柄を探しているとき、古レコード屋で掘り出し物を探しているとき…等も、状況は同じかもしれない。

例えば、僕たちが風景のある部分を凝視しているとき。

その凝視している部分の“本当の意味”は、フーカスグリーンやレコードを探している眼線と同様、“それ以外との比較”によって初めて明らかになってくるのではないか。

同じ部分をずっと凝視し続けると -例えば、同じ言葉を何度も反復しているうちにその言葉の意味が判らなくなったり、あるいは「どこぞで戦争が起き、誰が何人死亡した」とニュースで伝えられても、世界情勢のなかでその事件を(能動的に)捉えようとしなければ、個々の出来事の真意が本当には判らないのと同様- その意味が“判らなく”なることがある。

モネ パラソルをさす女 1886

人間がずっとひとりでいると、自分の個性や自分とは何かということすら判らなくなるのと同じである。つまり、水浴図に“美人”ばかりを並べられても、世の中にはもっといろいろなタイプの女性がいるはずだ、ということなのだ。

ざっくり言えば、そうした認識のメカニズム  -今注目している部分と、今注目できない部分とを絶えず往還していこうとするメカニズム- を洞察した視覚、感性が、セザンヌの「能動的な眼線」の正体ではないか。

セザンヌは、一点を凝視しながらも、絶えず強力に他にも眼を向けていこうとしていた人なのではないか。だから、例えば「部分」が「全体」にとってどのような意味を持ち、逆に「全体」が「部分」にとってどんな意味を持ちうるか、それを明快に描き出すことに成功したのではないだろうか。

そうした眼差しを天来備えてしまった画家にとって、何かを描こうとする際、対極の要素をブレンドしていくかの様な方法は -偏屈と言われようが、へそ曲がりと罵られようが- 今見つめているところの視界をめぐる感性の不安を解消、解決する最も有効で手っ取り早い方法だったのではないか。

彼の絵を眺めれば眺めるほど、そんな風に思えてくるのである。

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