僕たちが、「能動的」にものを視、“愛(め)でる”とき。それは、探し物をするときばかりではないはずだ。
たとえば、朝の光が差し込む室内や美しい肢体、感動的な絵、眼前にひろがる圧倒的な景色。それらを食い入るように視つめているときの共通点は、視覚の「全体」と自分の走らせる眼線(=「部分」)との、絶妙かつ有機的つながり、その強烈な認識ではないだろうか。
たとえば、画家や造形作家ならば、展覧会の展示作業中、作品の配置に気を配っているとき。彼の視覚という舞台上で、会場の「全体」像と個々の作品の「部分」的な視え方とのあいだの絶えざる攻防戦があり、やがて「全体」と「部分」とが絶妙な有機的バランスヘと実を結んで、ひとつの展覧会場がまとめあげられる。
以前このエッセイで、僕が寝ぼけ眼(まなこ)でコーヒーを飲みながら、眼前の白いコーヒーカップが自分の眼にどのように映るか書いたことがある。
「僕がこのカップを『視る』とは、カップの側面に眼をやり、こういうかたちをしているんだと認識したうえで、カップの上の面に眼を走らせる。そして、真上からのぞけばきっと丸いかたちで、中には褐色のコーヒーが香っている…」というようなことを言った。何となくでも、人間はふだんそうやってものを視ているし、それには― 一瞬で外界を捉えられるコンパクト・カメラなどとは違って― 本来的に時間がかかる、とも述べた。
さて、ここで強調したいことは、僕たち人間が対象を強烈に視つめる場合、何を視ているかと言うと、せんじつめれば眼に映る視覚の「全体」と注視している「部分」がどのような関係にあるか、いわばその“関係”を視ている、ということである。だから、時間がかかるのだ。
その意味で、セザンヌのなんと素晴らしいことか!
彼の残したタッチは「部分」的な眼線の動きを忠実に再現しているにもかかわらず、それが視覚の「全体」にどのように連なり、どのような関係にあるか、そして今、眼前にひろがる「全体」の中で、自分がなぜこの「部分」に眼線を傾けているか、きわめて真っ正直に表現しようとしている。ひとことで言えば、その「必然性」を明らかにしようとしていると言ってもいい。
「部分」と「全体」との有機性を、こんなにピュアに表そうとした画家は、他に見当たらない。
その「必然性」を探り当てるために、彼は一枚の絵を仕上げるのに大変な時間を必要とし、また、「へたくそ」と言われ続けながら、彼は生涯、いびつに歪んだ空間を描きつづけたのではないか…