前のページでは、対象を「全体」から捉えようとするための訓練がデッサンを学ぶ目的のひとつであるとすれば、対象を「部分」的に捉えようとする肉眼の特性を創作の武器にしたのがセザンヌだった、というようなことを書いたような…。
それについて、僕に負けず劣らずセザンヌを好きなあなたは「それはおかしい!」と異を唱えたにちがいない。
つまり、なるほど確かにこのエッセイをずっと読んでくると、何となく納得させられてしまっていた、と。しかし、セザンヌ作品をつぶさにみればみるほど、例えば「トランプをする男たち」の、画面全体にみなぎる構築感はどうだろう!
要するに、彼ほど構図に腐心した画家は珍しく、彼こそ生粋のコンポーザーなのであって、それはとりもなおさず、セザンヌが眼前の視界、もしくは作品を常に「全体」から捉え「全体観」を何より大切にしていた証拠である、この点でセザンヌ作品から「部分的な眼線」ばかりを強調するのはおかしい、と。
…確かに、この指摘は説得力がある。
さて、それに対して僕は何から答えたらいいのか…。否、この問いに対する答えが、もしかしたら、僕がこのエッセイでまず述べたかったことかもしれない。ともかくは、言葉にしづらい感覚を言葉にしてみよう。
例えば白いキャンヴァスを前にしたとき、画家の眼前には“無限の白い空間”が拡がっている。とくにセザンヌの場合、眼の前の白いキャンヴァスに対峙して、ある種の期待と言ったらよいのか、視界の立ち上がる在り様そのものを待ち受けるかの様な、強い造形的緊張がそこにもたらされていたにちがいない。
と言うのも、彼の場合、モティーフとなる対象(それが人物であれ、風景であれ、静物であれ)が示されるその仕方、すなわち、モティーフが立ち上がって視界に出現してくるやり方自体の中に、すでに感動的なものが感じられるからである。
そうして彼の作品は、モティーフが宗教、神話などといった、明確な目的と伝統的な絵画ジャンルにのっとった(いわばヨーロッパ的な理念の)表現から離れていけばいくほど、いっそう感動的になっていくようにみえる。 まるで、「何を視ているか」よりも「どのように視ているか」が重要であり、もっと言えば、「視ること自体が感動的なのだ」とでも言っているかのようなのだ… 。