セザンヌは自然をこう視た 10.「塗り残し」の意味

風景 1885-87

「描かれるモノは崇高なテーマなんかでなくていい。視ること自体が感動的なのだ」とでも言っているかのようなセザンヌ作品。そうした彼の絵の特徴は、セザンヌが印象派から学んだ最も重要な教訓のひとつだったにちがいない。

要するに、モティーフとなった対象が立ち上がる、その“立ち上がり”がセザンヌにとって最大の関心事であり、生命だったのだとすれば、そうした興味を誘うモティーフであれば、何でも彼は描いたのだろう。

ここで、とくに強調したいことは、セザンヌの絵の「部分」が常に「全体」を暗示している点である。

たとえば、セザンヌが描き込んだひとつのタッチ。あるいは「部分」。それは、常に「全体」を指向している。 同様に、塗り残された余白や下地も、作品としては仮りに未完成で終わっているとしても、常に「全体」を指向している。彼のほとんどの作品において、塗り残された余白や下地は、この作品の「全体」が今後どのように仕上げられるか、どのように浮かび上がっていくか、一本のタッチと同等の権利でそれを強く喚起してくる。

むしろ、未完のままの「部分」である塗り残された余白や下地によって、いっそうその「部分」が「全体」を強く意識せざるを得ない、といったふうに描かれている。あるいは、画家は常に「全体」のことを考えているのだということを言うために、作品は「部分」的に描かれている。そのパラドクスに成功しているのだ。

そして「全体」の構成がゆるぎないものになればなるほど、今度は逆に、タッチはそこからの自由を求めて「部分」的な躍動を高めていく。

それはあたかも、そもそも我々人間は(どんなに視覚の「全体」像を意識したとしても)結局は「部分」的にしかものを視ることが出来ないのだ、ということを雄々しく主張しているかのようでもある。

つまり、大変面白いことに、セザンヌが「部分」的にものを視れば視るほどその画面はゆるぎない「全体」を意識し、「全体」の構成が厳格になればなるほど、「部分」は勝手気ままに“眼線を走らせようとする”…。こうして、「部分」と「全体」の関係がそうなっていけばいくほど、“人間がものを「視る」とはこういうことなのだ”と訴えかける力が、ますます強く大きくなっていくように感じられるのである。

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