セザンヌは自然をこう視た 6.セザンヌの「筆の動き」は「眼線の動き」

前のページでは、セザンヌの絵の“普遍的な躍動”とでも呼びたくなるような活き活きした表情が、彼の「筆の動き」と我々の「眼線の動き」とが同じであることに由来している、というような自身の考えを述べた。

また、その意味でセザンヌのタッチは単なるマニエラを超えたものだ、ということも言った。僕自身、自然の観察をたゆみなく継続してきた結果の、これはひとつの考えにすぎないとしても。

それにしても、セザンヌの絵から受ける、他に例をみない「そのものらしさ」、対象の不動の「存在感」、あるいは「deja-vu」(デジャヴ、既視観=すでにどこかで視たことのあるイメージ)の感覚等々、批評家たちによって様々な言葉で語られてきたことの根本的な要因はそこにあるのではないか、という考えはずっと抱いてきた。

城館の入口 1862-64

では、その単純な真実、つまりセザンヌの「筆の動き」と我々人間の「眼線の動き」とが同じであるという“当然の理”に、これまで、なぜ人々は気づかなかったのか? 

正確には、気づいてはいたけれども気づかない“ふり”をしていたのではないか…。

もし、セザンヌの絵が、「筆の動き」=「眼の動き」、「眼線の動き」によって成り立っているとしたら、暴論を吐くようではあるが、実際、彼以降ほとんど画家は絵筆を握ることが不可能になってしまう。と言うより、絵筆を握ることが“必要なくなる”と言った方がいいかもしれない。と言うのも、セザンヌ以降、どんなに優れた絵であろうと、彼が到達した活き活きしたフォルムの躍動に及ぶべくもなくなってしまうからだ。彼の作品は、僕たちが世界を眺めるときに眼線を動かす有り様そのものを絵にしているのだから!

では、彼以降に生を受けた画家は、一体どうすればいいのか?

というわけで、僕は「絵筆」よりも「版」を多用している。「絵筆」を使って絵をかくことではセザンヌにかなわないから、ということか。ともかく、この考えにとり憑かれて以降、絵筆によって絵をかくことの虚しさをおぼえるようになったのだから、如何ともし難い。

今の僕のやり方は、おもにシルクスクリーンの技術をモノタイプとして絵画に導入するというもの。モノタイプとは、複数生産でなく、一点のみ出来上がる版画のことである。「絵筆」よりも「版」を多用していると言ったが、実感としては、版を「絵筆」として扱っているので、「版の機能を生かす」というようなアルティザン(職人)気質は、意識の上ではもちろん、作品のなかでも最小限にしたいと考えている。

実際、そうしたきっかけで絵筆を捨て、版画の世界に転向した作家は、世界に幾人いるのだろう…?

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