セザンヌは自然をこう視た 65.出現しては消される三角形

デ・ローヴから見たサント・ヴィクトワール山 1904-06
サント・ヴィクトワール山 1902-06

前のページでは、晩年の3つのジャンルに立ち現れた「三角形」について概観した。

ヴィクトワール山の“描かれ方”の変遷もザッと見渡したが、こうして眺めると、最晩年のこのシリーズの特徴もいっそう鮮明になってきたのではないだろうか?

最晩年のヴィクトワール山の一枚一枚は、いっさいの夾雑物 ―切り通しや並木など― が無いがゆえに、さながら、宇宙に浮かぶ星々の系、「遠心力」と「求心力(引力)」とのはたらきによって緊張を保持しエネルギーを爆発させる小宇宙に似ている。

と言うのも、すでに数回にわたり作品に即して話してきたように、とくに画面の「均質化」と眼線の「スポット」というふたつのエレメントが、ある種の「遠心力」と「求心力」となって、互いに高い緊張を保持し作品の核をかたちづくっているからだ。また、それが、僕にとっての主な感動の源となっている。

シリーズを通じて、山の「三角形」の“出現と否定”はあてどなく繰り返され、結果、ヴィクトワール山の輪郭が空や周囲と判別がつかなくなったり、大変に抽象的な画面になったり、山が異様な静寂につつまれたり …というように、きわめてシンプルな構図ながら、じつに多様性に満ちたシリーズにもなっている。

なぜ、そうなったのか?

難しい問いかもしれない。ひとつだけの答を見出すことは、おそらくできない。

例えば「三角形」の“出現と否定”を、(セザンヌの赤裸々な内面がそのまま映し出された)「安定感」と「不安定感」のアンビヴァレンスの現れとみることもできるだろう。

あるいは、「三角形」(=ヴィクトワール山)を、ひとつの厳格な「幾何学的」かたちとみるなら、その「幾何学的」かたちを“打ち消す”ように判別しにくくしているセザンヌの筆の運びが、彼の人間臭いマニエラ(手癖)を濃厚に感じさせるという観点から、「幾何学的」かたちと「有機的」(人間的な)かたちとのアンビヴァレンスなこころの現れとみることも、また可能かもしれない。

デ・ローヴから見たサント・ヴィクトワール山 1904-06

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