モティーフ選択の仕方について、モネとセザンヌを比較しながら話を進めてきたが、もうひとつ -セザンヌの水浴図を語る上でも- 絶対に外せない注目点がある。それは、人物の表現に関するものだ。
モネは、“印象派に人物表現は適さず”と悟り、モティーフから人物を追放した。実際、彼は『パラソルをさす女』やボートに遊ぶ人々のシリーズを描いた後、殆ど人物を手がけていない。
睡蓮シリーズでは、モネのモティーフ選びのスマートさ=「何を描くべきか」についての的確な判断力に触れたが、それと同様の鋭い感性が、自身が「何を描くべきでないか」についても的確な判断をくだしていたことが伺える。
ここで思い起こすのは、モネの友人、ルノワール。
ルノワールは、主に“女”を描きたかったので、印象派の王道を捨てたと言っていい。
事実、1883年頃の彼は印象主義との矛盾に悩み、一時期はマネキン人形のような肉体の表現をさまよった時期もあった。(下の2作品を比べてみてほしい)
印象派の点描手法を推し進めたスーラも、代表作である『ラ・グランド・ジャット島の日曜日の午後』では、一瞬、時が止まったかのような優れた群像描写を成功させておきながら、ガールフレンドや裸婦などの人物画となると、やや面白味に欠ける気がするのは僕だけだろうか。
彼の作品は、「新しい印象主義」ないし「印象主義の発展」というより、独断ではあるが、いつの時代も人々は“モザイク”が好きだということを、改めて感じさせる様な絵である。
彼らがある種の袋小路に入ってしまった本当の理由は、簡単に言えば -『陽を浴びる女』にせよ『グランドジャッド島』にせよ、モネの『パラソル』にしても- その作品たちが、いずれも色彩による“場の表現”ないし“臨場感の表現”として成功していたにもかかわらず、その成功の歩みを、いわば“人物の表現”として推し進めようとしたからではないか、そんなふうに思えてくる。