セザンヌは自然をこう視た 42.平面と空間の“幸福なる融合”

確かにモネは、晩年の睡蓮のシリーズによって、印象派の手法が、とどのつまりは絵の中心を失くしてゆき、画面を「平面化」し「均質化」させていくものであることを、水面の描写を通してとても美しく示している。

また、ここでは、画面の「平面化」や「均質化」が図られているばかりでなく、同時に、(水に浮かぶ睡蓮の葉や花々によって)「眼線のスポット」もきちんと確保されており、その点では、セザンヌの最晩年のヴィクトワール山シリーズと同様であると僕はみている。

例えば、水に浮かぶ睡蓮の葉や花々。それらを、水に映り込んだ「虚の世界」と対照をなす「現実の世界」の象徴とみるなら、ここでは、「虚と実」が、平面上でこの上なく幸福に共存している。これこそまさしくモネ自身、彼の仕事そのもの!

さらに気がつけば  -これもまた大変興味深いことに- この睡蓮シリーズのうちのいくつかは、水に映りこむ虚の世界の深々とした「奥行き(空間)」感と水面の描写による「平面」感の共存が、いともたやすく達成されている。(勿論、睡蓮の葉や花々の大小によって、奥行き感が示されているということの他にであるが。)

「奥行き」感と「平面」感を、いかにユニークに共存させるか。

その問題は、すでに『赤いベストの少年』でも触れた通り、絵画の歴史の上でもきわめて重要なテーマだった。それを実現するにあたり、セザンヌはその絵で空間を歪ませ、右腕を長く伸ばし…といった大胆な方法をとったが、そこにはある種のいびつな格闘があった。

モネ 緑色の反映 1914-18

ところが、モネの晩年では、「奥行きと平面」をめぐるこの大テーマが、『赤いベストの少年』でみたような空間の歪み、いびつな格闘によってではなく、池の水面という「モティーフの選択」によって、じつにスマートに解決されている。そこでは、水の奥に映りこむ虚の世界の深々とした「奥行き」が描かれながら、なおかつ、水面=「平面」が描かれているからだ。「平面」と「空間」の、じつに幸福な無理のない融合!

では、セザンヌは『赤いベストの少年』より後、晩年、この問題をどのように解決しようとしたのだろうか?

気がつけば彼の場合は、スマートなモネとは逆に、ヴィクトワール山シリーズという彼の作品中、最も「平面化」の進んだ試みのひとつで、最も「奥行き」のある雄大無辺の風景モティーフに挑戦してしまっているではないか…!!

極端な「奥行き」感を極端な「平面」化によって表現しようとする姿勢  -これがセザンヌという画家の真骨頂なのである。 

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