セザンヌは自然をこう視た 40.“平面的”であればいい絵になるか

休暇中、友人の個展から帰る途中。偶然にも、いつかの美大生ふたりが…

彫刻学生 「モネの『睡蓮』っていいよなぁ、お前、どう思う?」

画学生   「あれは、みんな好きやで!」

彫刻学生 「水面に映りこんだ風景を、あんなふうにかけたら最高!」

画学生   「そう、あの絵のテーマは、水面という現実の世界を映した仮の世界、“虚の世界”やろ。せやから、“現象”を追いかけつづけた印象主義の感性にピッタリはまるんやな」

彫刻学生 「なるほど。水面に映る像は、確かに“実体”じゃないからなぁ」

画学生   「モネはな、連作を重ねるにつれて、池の対岸の描写やなんかをやめて、水面だけかくようになったんや。特定のモティーフの描写が無うなって、作品はますます大きぅなっていった」

彫刻学生 「『中心の喪失』とか言ったっけ。でもさ、お前の好きなその20世紀の理論を聞いても、実感として、なぜ俺が『睡蓮』に惹かれるのか、その理由にはちっともなっていない……」

画学生   「なんでや?」

彫刻学生 「だって“絵が平べったいことの自覚“とか“平らの強調”とか言われても、だからじゃあ、当時、水面をモティーフにすれば、みんなが傑作をかけたわけじゃないだろう!?」

モネ 夕暮れの中の睡蓮(左半分) 1910

画学生   「そやけどな、誰よりもモネが敏感に、そういう“平べったさ”を求めていこうとする絵の方向、歴史の方向をかぎとってたんちゃう?」

彫刻学生 「だから何ナノ? じゃぁ聞くが、かなりシッカリ『睡蓮』の花や葉っぱがかかれているのはどうして? 柳の影なんかもあったりするんだぜ。画面に『均質化』やら、『中心になるモティーフの喪失』とかを求めていただけだったら説明がつかんだろう!」

……面白い議論だな、と僕は思った。

つづきは、また次回。

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