セザンヌは自然をこう視た 39.モネの「睡蓮」、均質化とスポット

モネ 睡蓮の池 1904

唐突ではあるが、この作品。

印象派の代名詞のような存在、クロード・モネ晩年の「睡蓮」の連作は、日本でも大変に人気がある。彩りの美しさもさることながら、どこかに日本的な無常観・季節感のようなものが感じられるからだろう。

ヨーロッパで初めて「睡蓮」をモティーフにした画家はモネだったと言われている。モネに限らず、19世紀後半辺りからのヨーロッパ絵画の数々が、私たち日本人にとても魅力的で親しみやすい理由は、ざっくり言えば、当時のヨーロッパの絵描きたちがジャポニスム(日本趣味)の流行のもと、日本人の美意識に近づいたためだろう。

今はそれについて話す時ではないので、寄り道は避けたいが、そんなモネの「睡蓮」のシリーズもまた、セザンヌと同様、「画面の均質化」が図られると同時に「眼線のスポット」が確保された好例として、ここで揚げないわけにはいかない。

モネとセザンヌ-。このふたりは最晩年、同時代人として同じようなテーマにぶつかり、それぞれ異なったやり方で問題の解決を試みたと僕はみている。

一体、モネは、なぜ繰り返し「睡蓮」の連作に臨んだのか? 絵に中心が失われ、画面の平面化、「均質化」がことさらに指摘されがちなこれらのシリーズに、眼線の「スポット」という相反する要素が認められるとはどういうことか?

次回は、ふたりの最晩年  -「睡蓮」と「ヴィクトワール山」 - を比較することによって、モネが到達した境地とセザンヌのそれとの違い・共通性を明らかにし、あらためて、セザンヌの特異性に迫ることができればと考えている。

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