セザンヌは自然をこう視た 36.「具象」を追及した結果「抽象」的になったセザンヌ

シンプルに言えば、セザンヌは「具象画の属性」を追求するために「抽象画の属性」を必要にとし、逆に「抽象画の属性」を追求するために「具象画の属性」を必要とした。だから、「抽象」を推し進めるために「具象」を棄てるとか、「具象」に徹したいから「抽象」を断念する、というような発想は彼には無かったのである。

―どうしてそう言い切れるか? 作品が、それを物語っているからである。

最晩年のヴィクトワール山シリーズは、既にみてきた様に、どの作品も“振動・生動するタッチ”によって画面全体が覆われている。その意味で、画面全体の「均質化」が進んでいるのだが、逆にそれゆえ、ひとつのスポットのみ異質なパートが存在した場合、鑑賞者は否応なくそこに眼を向けざるを得ない、といった風にかかれている。

例えば、小学校の入学式などで同じ制服を着ている子たちのなかに、ほんの僅かでも違った体(てい)の子がいると大変に目立ってしまうのと同じである。注目したいスポットを目立たせるために、他を均質化し平板化してゆくという手法。

その点を確認したいので、いま一度『サント・ヴィクトワール山とシャトー・ノワール』を見てみたい。

この作品では「眼線のスポット」がふたつ存在したが、今は「建物」だけを注目して話を進めてみる。というのも、気がつけば、この風景ではオレンジに輝く「建物」のみ人工の造形物で、他は全てが ―もうひとつのスポットである「山頂と空」をも含めて ― 大自然の産物、被造物である。

この「人工物VS自然物」という視点に着目すると、生い茂る木々(や大気までも)が振動・生動するタッチとなって「建物」を覆いつくさんばかりだが、一方「建物」も、それに負けじと堅固な存在感をアピールしている、そんなドラマが浮かび上がってくる。

サント・ヴィクトワール山とシャトー・ノワール 1904-06

画家が明確に意識していたかどうか判らないが、「建物」がスポットになった理由のひとつにそんな「建物VS自然」という隠れたテーマがあったのかもしれない。

それはともかくとしても、ここでは「建物以外(=自然)」の全ては振動・生動するタッチによってかかれ、(「建物」に示される)線遠近法的な空間表現や尖った陰影などが放棄され、総じて、著しく均質化・平板化が推し進められている。近景の木々はピンボケ写真もしくはモザイク画像のようにぼやかされ、どっしりと遠景にたたずむべきはずの山ですら、空や木々と同様の生動するタッチによって表されているためか、輪郭がなければ周囲の空気の振動に同化してしまいそうな点は、いつかも述べた通りである。

さて、このようにみてくると、この絵では、画家が自分はここを注目しているんだと言うために「建物」をエキセントリックなくらい目立たせている。そうして、そんな「具象画」的な目的を達成するため、彼はその周辺の景色、「建物以外」の風景を、著しく「抽象化」し「平面化」していったことが明らかとなってくるのである。

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