セザンヌは自然をこう視た 35.具象画としてのヴィクトワール山

“山”の風景をカメラで撮影し、プリントしてみてガッカリ……という経験をよく耳にする。これは、とくに“山”というテーマが、いわゆる「写真的な記録」ではなかなか太刀打ちできないモティーフであることを物語っている。

(その理由は様々考えられるし、それについて思い巡らせたい方は、まずは山の写真の成功例をつぶさにご覧になることをお薦めしたいが、詳しい話は別の機会に譲りたい。)

いずれにしても、セザンヌが終生いどみつづけた問題のひとつが、当時普及し始めた「写真的記録」への懐疑・挑戦であったことは今さら言うまでもないだろう。また、その最も魅力的で困難な課題を、彼が“サント・ヴィクトワール山”に見出したとしても不思議はないのではないか。なぜなら彼は、“写真のもつ再現性・記録性のウソ”を真っ先に見抜いた画家のひとりであったろうし、それが同時に「具象画家」としての彼の真骨頂でもあったからである。

…というわけで、最晩年のヴィクトワール山・シリーズを「具象画」として眺め、「具象画の特性」が活き活きと追及されている様を、私たち自身がこうした風景に臨んだ場合の臨場感、そして「眼線の動き」を中心に、「眼線が収斂するスポット」を想定して、僅かではあるが明らかにしてみた。

若きセザンヌが、複雑な形状の風景画などで積み重ねてきた実験や試行錯誤の答が、新たな問題を生み出しながらも、晩年に至って愚直なまでにシンプルなモティーフによって提示され、愚直なまでにシンプルな解決が試みられていることに畏敬を感じずにはいられない。「抽象」の先駆者としての側面ばかりクローズ・アップされがちなセザンヌが、実際には「具象画の特性」の方もきわめて大胆に追及した点を確認したところで、話を次に進めたい。 

やや唐突ではあるが、ここで強調したいのは、たいへん興味深いことに、セザンヌが「具象画の特性」を追求するために「抽象画の特性」を必要としたということ。つまり、現実世界との対比をより活き活きと濃密に実現するために、抽象化・平面化を必要とした点である。

別の言い方をすれば、「具象画の特性」を追求すればするほど、「抽象画の特性」を必要とし、あるいは逆に、「抽象画の特性」を追求すればするほど「具象画の特性」を必要とした、という点なのだ。

彼の場合、どうして常にそうなるのだろうか…?

サント・ヴィクトワール山とシャトー・ノワール 1904-06

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