セザンヌは自然をこう視た 28.抽象画の不安

画学生 「上手くは言えんけどな、理論的なことも大切やと思うねん。そやないと、個性は普遍性をもたないただの偶発におわるちゅうか……」

彫刻学生 「お前は普遍性とか言いすぎる。俺はそういうこと考えると、作品が不純というか、つまらなくなってくるんだ。普遍性なんてもんは、あとから勝手についてくるもんだ!」

画学生 「そうとは言い切れへんで。」

彫刻学生 「なら言うけどな…俺は抽象やる連中に前から疑問をもってたんだ。なぜ今の人間は素朴に作品つくれなくなったかって……人間は“視覚の動物”だろ、イメージの生き物だろう? 人間から具象的なイメージを取りあげたら、何がのこる? 作品がわかりにくくなるのは当然じゃないか!なぜ、わざわざそんな不自然な状況に自分たちを追い込んで……」

そのとき、僕はこんなことを思った。

―なるほど、たしかに人間は視覚の生き物だ。

美術館で「抽象画」にとり囲まれ、具体性のないイメージと対峙し、いらだちと不安を覚えたとしたら。それは、例えば嗅覚の生物である犬が、散歩中にぼんやりハッキリしない正体不明の臭いの数々に囲まれて怯える感覚に似ている。僕たち人間にしても、したがって「抽象画」を拒絶するのはきわめて自然、妥当なことである、と。

いや、しかし人間と犬とは違う! 今の比喩で欠けているのは、僕たちの文化が積み重なり、絶えず動き進展していることである。それが人間、人間の文化というものだ。

たとえばモーツァルトの音楽にしても、ひろく遍く聴かれているように考えられているかもしれないが、実際には地球上のごく一部、限られた地域にしか鳴り響いていない。それでも、その僅かな人々によって愛されつづけ、今日に及んでいるではないか…。

そんなことをあれこれ考えていると、そのとき…

画学生 「さっきは上手く言えんかったけどな、なぜ自分が『抽象』やってんのかわかってきたで。お前のツッコミのおかげや。」

彫刻学生 「なんで?」

画学生 「ひとことで言えば、こうや……」

…つづきは次回。

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