セザンヌは自然をこう視た 25 .セザンヌが抽象に至らなかった理由

唐突ではあるが、なぜ、セザンヌはついに抽象へ至らなかったか?
これはなかなか面白い問いだろうし、考え出すと眠れなくなるテーマかもしれない。

青 い 花 瓶 1883-87

…と、その前に、そもそも「抽象画」「具象画」とは何なのか?

いろいろな考えが巷にあふれている。

例えば、抽象画を写しとった絵は抽象画か、というような議論は、無意味とは言わないまでも、そうした厳密論を持ち出すと本題からそれてしまいかねない。そこで、ここではいちおう、「現実世界にある具体物を何も想い起こさせない絵を『抽象画』、逆に、現実世界にある具体物を想い起こさせる絵を『具象画』」というふうに定義してみる。

そして、冒頭の問いを考えていくためにも、両者の根本的な違いと共通性とをハッキリさせておきたい。

…例えば、リンゴがかかれた絵を僕たちが眺めるとき、その絵を見ていると同時に、現実の本物のリンゴを“見て”いる。知らずしらずのうち、どこかで見た現実のリンゴを参照しているからだ。もしくは、描かれたリンゴと現実のリンゴとを“こころの深層で瞬時に対比させている”と言った方が正確だろうか。

―私にとってのリンゴはこんな感じではないが、画家はリンゴをこんな構図でこんな風にかいている、だからきっとこんなことを言いたかったに違いない、とか、いかにも美味しそうとか、色の輝きが強調されている、等々。あるいは、リンゴが“かきかけ”のように見えるのは、念入りにかいてある別のモティーフに注意を呼びかけたいのだ、とか。

しかも、そうした「現実世界との対比」は、ほとんど無造作・無意識的・反射的になされる。僕たちが絵を眺めるときのこの当たり前の精神の営みが、鑑賞者を作品へと自然に誘ない、なおかつ絵を注視させるための強力な武器としてはたらいている。

要するに、鑑賞者のこころの深層で営まれる「経験で知る現実世界と、絵の世界との同時的な対比」が画家の表現の前提であり、表現の核となっている。これが「具象画」の特徴なのだろう。

ところが「抽象画」の場合、こうした「現実世界との対比」は皆無である。当然だ。現実世界のイリュージョン(像)を放棄してしまっているのだから。つまり「抽象画」は、「具象画」に備わっている強力な武器を持たない“牙を捥がれた虎”かもしれない。これは、絵としてひどく不利なようにも見える。

さて、こうなると、にもかかわらず、なぜ「抽象画」が誕生したのか? 「抽象画」のメリットは?ということになってくる。

「抽象画」の武器とは一体何なのか…

▶目次へ