木俣創志 展 2005

(「Kaleidoscopic Gallery Scene」より転載)

  

  

コバヤシ画廊   2005.6/13-18

東京都中央区銀座3-8-12 ヤマトビルB1F TEL03-3561-0515 11:30-19:00 日曜休


東京芸大大学院博士課程修了/1990日仏現代美術展(パリ国立グランパレ美術館)/1992. 94. 96. 個展(TEPCOギャラリー,東京)/1994-97,2001-02TAMON賞展(柏市民ギャラリー,千葉)/1999-05デッサン展(ギャラリー52,東京)1997.1999-05 個展(コバヤシ画廊,東京)/2001-02,8月,北海道標津町“芸術・文化の里”にて現地取材・制作/2004 第1回とよたトリエンナーレ(豊田市美術館,愛知)/ほか


  

・・・制作技法を教えてくださいますか。

手法としては、写真製版によるシルク技法を、一種の絵筆として絵画に導入しています。僕は今までずっと蔦の絡みや河原の石ころなんかの無人風景、存在理由の全くなさそうな風景に取り組んできました。そんなモティーフたちが、そのように描け、と自然に要請した感じはありますね。つまり、僕にとって、これらのモティーフは無名性のメタファーなんです。
たとえばゴッホは、激しいタッチで表現し、絵画的な深まりを達成した。僕の場合は、できるだけ自分のマニエラの表情を消し去ることで絵画的な深まりを達成できたらという、逆の発想ではないかと思います。

・・・植物をモチーフに描かれているのは・・・。

以前僕はアンフォルメルや抽象表現主義の作品にかなり影響を受けたときもありました。けれど、ふと外の世界を見渡したときに、たとえばどこにでもあるような公園で、人知れずひと夏のあいだに、葛やなんかの植物が偶然近くにあったフェンスに巻付いてそのまま枯死した痕跡・・・こんなにすさまじいオブジェというかドラマは、じつはないんじゃないかと、ありふれた現実が,ひどく感動的に見えたんです。逆に、抽象画の空間世界がひどく矮小に感じはじめた。

・・・この“木洩れ日”のシリーズは、光をかなり意識されていると思うのですが。

今回の作品は、要素をなるべくシンプルにして、光だけを人為的な手の痕跡として表現しています。今、目に見える世界は、カメラを媒体とする映像に囲まれているじゃないですか、セザンヌがあんなに嫌がったにもかかわらず。皆多かれ少なかれ無機的な目線で風景を見ているように思います。そこに光が射したならば・・・自然界に無為に転がっている柔らかな“光”はひとを癒しますよね。またそれは,深い闇(陰影)があればこそ成立していると思います。

・・・光が強ければ、闇もまた深いということですね。

実は、制作の遠い契機となった出来事があるんです。それはテレビで見た銃痕(弾痕) の残る車両の写された報道写真で、僕は、そんなネガティヴな映像に,敢えて光をあててみたいと思ったんですよ。すると木々の間から射し込む木洩れ日のようなイメージになるんです。ただし、そんな画家の動機はどうでもいいもので、結果としては,ネガティヴな映像をさらにネガティヴに反転したようなイリュージョンになったのではないかと思います。


6月はレインシーズン。
光が恋しい季節です。でも木俣さんがおっしゃるように「光は深い闇があればこそ成立するもの」。
古代中国には太極図という白黒の勾玉を組み合わせた意匠(陰陽説において宇宙の根源を表すシンボル)があるのをご存じですか。白は上昇する陽の気を表し、黒は下降する陰の気を表す。“陰が極まれば、陽に変じ、陽が極まれば陰に変ず”。陰と陽の二気が調和して始めて自然の秩序が保たれるのだとか・・・。木俣さんの作品の前に立ち、私はそこに遙かなるタオ(道)を感じたのです。~18日まで。

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