モネとセザンヌを比較しながら話を進めてきたが、前のページではいろいろな画家を登場させてしまった。
さて、セザンヌの性癖 -正反対の要素を持ち込むことによって、造形上の問題を解決しようとする性癖を、以前、その代表作のいくつかから探ったことがある。そこに現れた彼の意図は、何なのか?
そのとき、逆をやることで、“天邪鬼ぶり”を披露したかった(?)というのとは別の理由のひとつを、「能動的な眼線」の正体にまで掘り下げて述べた。
-要するに、彼はきっと、やむにやまれぬ思いで、ある種の“バランス”を描きたかったのではないか。同時に、自身の“こころのバランス”を保ちたかったのではないか。そして、作品に、より深遠なるものを求めたのではないか。
印象主義のように、「その場の臨場感」や「現象として世界」を表現することに優れた成果を示す手法は、人間の内面や個性の表現には適していない、だから人間は描きません、あるいは、印象主義は印象主義らしく平面的なモティーフで…といったことに、どうしても我慢ならなかったのでは…
僕の勝手な憶測では、セザンヌは、従来型・紋切り型の“女は女らしく”、“老人は老人っぽく”といった“らしく”の表現に飽き足らなかったばかりでなく、何か鼻持ちならない欺瞞をおぼえる人だったとさえ考える。
具体的にみていきたい。ここでの話は、絵描きの勘にすぎないのだが-
水浴図の数々では非官能的、グロテスクな裸婦の群像が目立つが、やはり彼は、「女」を描きたかったのではないか。
落着きなく躍動し生動するヴィクトワール山シリーズでは、彼は孤高の山の姿を -エクスの片田舎の小さな山を- 彼方で孤独に勝利を確信する、巨大な空気のなかの山の姿を描きたかったのではないか。
純白のクロスに乗せられた真丸のリンゴたちを、ベッドの白いシーツ上の豊満な女性と解釈されようがされまいが、ともかく彼は、はちきれそうな果実と、喜びに震え充たされる空間を描きたかったのではないか。
表情の省略された最晩年の肖像画においても、やはり彼は、人間の深く険しい内面を、その存在の重さを表現したかったのではないか。
そして、どれも「つまらなそう」と悪口を言われる全27点にのぼる“セザンヌ夫人”の肖像にしても ―妻のオルタンスは、確かに常につまらなそうにポーズしているものの、それは何も彼女の肖像に限ったことではなく- そこでも彼は、虚飾を拭い去った、ごく普段の彼の妻を、ごく当たり前のことのように、何枚も描きたかったのではないか。
たとえ、“夫婦は夫婦らしく”ということに、我慢できなかったとしても…。
(ところでこの『髪をといたセザンヌ夫人』、数ある夫人像のなかでも、ちょっと何かが違っている気がしませんか?)