
晩年の肖像作品のいくつかは、すでにみてきた通りだ。彼のこのジャンルに対する意気込みは、並々ならぬものがあったのだろう。それらは、「外面化された内面表現」というような言葉がひどく粗雑に聞こえるほど興味の尽きないものだ。
なぜ、晩年の肖像画が面白いか?
その理由を一言で述べれば、-ヴィクトワール山と同様- そこに描かれた人々が、大変に“危ういゾーン”を歩かされているからだ。
すなわち、(肖像画というジャンル一般に認められがちな)「三角形」構図のもと、ある作品では、じつに“親密”に語りかけてくる人物画を描いておきながら、他方では、人間として血を通わせ呼吸し始める一歩手前の、単なる“物”と化しているような、そんな人物画が制作されてもいるからである。(先日とは別の、同じ頃に描かれたとされる下の『庭師』をみて欲しい。)
勿論、晩年の作品すべてを、僕たちは手放しで神格化することは出来ない。徒な神格化は、画家の想いや作品そのものを観る者から遠ざけてしまうこともある。 それにしても、肖像画におけるセザンヌの人間探求。晩年の作品の、“成功と不成功”の連鎖…。
