セザンヌは自然をこう視た 53.「瞳」を描けなかったセザンヌ

父の日が近付くと、スーパーやショッピングモールの仮設展示場などでは、子どもたちの描いた“お父さん像”が並んでいる光景に出会う。皆な同じような“お父さん像”なのだが、一枚いちまいの絵について子どもたちに尋ねれば、きっと大人には判らぬ絵のユニークさを子どもなりに詳細に説明してくるかもしれない。

だがそんな説明を要しない、その中からひときわ目立つ作品に時として見入ってしまう。色使いやかたちの面白さが、何とも目を引く作品が確かにある。ふだんは通り過ぎてしまいがちな父の日の“父親群像”だが、そんな時、僕はその子にとっての父親像が初めてこころに刺さる気がして立ち止まる。

そのきわ立った作品。そこに表現された内容は、父へのその子なりの愛情かどうかは知る由もないが、最も“内容”が伝わるのは、(僕には)その様なお父さん像からだ。そして、その“内容”を「語り」と呼ぶか「文学性」と呼ぶか、あるいは「テーマ性」とするか、様々なネーミングの可能性があるだろう。しかし、個性きわ立つその作品に込められた表現を内容の空疎な造形プレイとのみ断じてしまうのは、早計な気がする。

では、セザンヌの同時代にかかれた多くの巷のありふれた肖像画群と、セザンヌ晩年のそれらを比較してみるとどうであろう… 僕は、父の日の“父親群像”の中にきわ立つ作品に出会う度に、そんなことに思いを馳せる。

ロザリオの女 1896頃

セザンヌ晩年の肖像画のいくつかに共通するのは、ディテール省略の妙と、抑制された色彩だ。そこに、彼特有の構成力の妙が加わり、結果、燻し銀の様な肖像画シリーズとなっている。水浴図に登場するフィクションの女たちや男たちとはちがい、現実の人間そのものに挑んでいるセザンヌの姿がうかがえる。

晩年の肖像画シリーズの根底にあるものは、一言で言えば「外面化された内面表現」ではないか?

例えば、『ロザリオの女』を見てほしい。この絵を見ると、僕はピカソの『ガートルートスタインの肖像』をいつも思い出す。両者に共通する渋い配色、厳しい構成のせいなのか、漂う雰囲気が似ているというばかりでなく、飾り気のない削ぎ落とされた形姿から、この静かにポーズをとる人物たちの存在感、厳粛で厳しい“内面”のようなものが伝わってくる。

では、無謀な質問ではあるが、このセザンヌとピカソとで、最もちがう点はどこだろうか?  そのひとつが、僕は、顔の辺り、とくに「瞳」ではないかと。

『ガートルートスタイン』では、瞳が、いかにも凛々しくはっきり大きく描かれているのだが、『ロザリオ』の瞳は、セザンヌの多くの肖像画がそうであるように、あまり細密な瞳の描写はみられない。

「肖像画というのは、手と顔さえしっかりと描けばいい」と語ったのはピカソだったと思う。全てにわたってしっかり描くと、かえって息苦しい絵になるという意味からか。なるほど、こうした違いがでてくるのもうなずける。

ピカソ  ガートルートスタインの肖像  1906

事実、『ガートルートスタイン』では、(仮面のような)顔、(柔らかな)手、(くっきりとした)瞳のあたりが最も念入りに描かれ、他は適度に力を抜いている。それが肖像画の最適な見せ方である、というピカソの言葉を実証しているかのよう。

瞳の描写というのは、とくに肖像画において、きわめて大切な部分であったはず。

確かに僕たちは、人生の折々で、相手の瞳を見つめ、あるいは、その瞳の奥から言葉にならぬ内面を読み取ろうとするからである。

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