『大水浴図』シリーズの制作において、実際のモデルを使わなかったのは何故か?
サルトルが初めて指摘した「視線による自由の拘束」や「物化」の概念を先取りするかのように、セザンヌは生身の人間への眼差しを回避したのではないか。あるいは、『大水浴図』が「視覚的な問題」から解放された、祈りにも似た純粋なイメージの結晶だったからではないか。
ともあれ、“物化”する人体群像、折り重なる裸の人間たち。にもかかわらず、絵のテーマは理想郷を指向するというアイロニー。不可思議なアンビヴァレンスを誰しもここに認めないわけにはいかないだろう。折り重なる裸体は、物質世界を体現しながら、同時に、セザンヌの青年時代 -仲間と水浴を楽しんだ懐かしい記憶- を幻視のように描き出す。
それは、物質と精神、有限と無限がせめぎ合う場であり、人間賛歌であり、20世紀への予言でもある。セザンヌの水浴図は、物質世界と人間の肉体の極限での戦いと調和を、“ジャメヴ”(未視感jamais vu 仏)として描き出した一つの到達点なのだ。
僕がとくに注目しているのは、晩年のセザンヌの特徴である「セザンヌ・トライアングル」の出現の仕方である。不思議なことに、「セザンヌ・トライアングル」は、この『大水浴図』では(人々を導き入れる)ゲートのようになっている。このゲートのかたちづくる「セザンヌ・トライアングル」は、しかし、ヴィクトワール山に出現した「三角形」とは明らかに違ってみえる。
というのも、ヴィクトワール山では、僕たちの眼線が厚い空気の層を通過して最後に固い岩にぶつかり、ついに撥ね返されてしまうような堅牢この上ない「セザンヌ・トライアングル」なのだが、ここにみる「三角形」は -同じブルー系でありながら- 「無限」を感じさせるからである。
同じ青を基調としながらも、それは「無限」を感じさせる門 -死を予感したセザンヌが自身の安息を求めた「天国の門」とまでは言わずとも、僕には「未来に通じる門」のようにしか見えてこない。
一体この門は、物質主義を超えた新たなヒューマニズムを夢見たセザンヌの幻視なのか。ヒューマニズムという言葉は現代では使い古され、死語とさえ見なされるが、セザンヌが描いたのは、この言葉から連想する陳腐な復古ではなく、来るべき時代のための新しい人間中心主義だったのではないか。理想郷を透かし見るような眼差し、その背後に広がる景色の美しさは、彼の夢想の証である。
セザンヌの水浴図を前にしたとき、「何故こんなものを描いたのか…」と戸惑う瞬間、見る者はまさにセザンヌの「泥くさい罠」に陥る。
その「罠」は、物質と精神、自然と人間、有限と無限の交錯を、私たちに静かに問い続けるのである。
