セザンヌは自然をこう視た 69.『水浴図』の裸婦たちはセザンヌ・トライアングルを否定する

そして、これらの絵を「具象画」として眺めた場合、彼の作品としては、どれも抽象化がかなり進んでいる、という印象を持つ。

一口にセザンヌの「三角形の目立つ絵」と言っても、表現はじつに様々である。『トロワ・ソーテ橋』では、弧のかたちが強調されていたりもする。

トロワ・ソーテ橋 (水彩)  1906

また、ここに載せたヴィクトワール山シリーズもかなり抽象化が進んでいるのだが、(前回見た)水彩による水浴図などは、タイトルがなければ“水浴図”と判断できないほどに抽象的だ。

サント・ヴィクトワール山 1904-06
大水浴図  1898-05

要するに、晩年の絵に見え隠れするセザンヌ・トライアングルたちは、「救い」「安定」を求める彼のこころの投影であると同時に、彼の突き進む「抽象」世界、純「造形」世界の極限のイメージでもあり、その双方の無意識的なシンボルだったと僕は考える。

そんな観方をしてゆくと、『大水浴図』の巨大な「三角形」のもとに描かれた裸婦たちもまた、「安定」を打ち消すためのひとつのエレメントだったのかもしれない。

デ・ローヴから見たサント・ヴィクトワール山 1904-06

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