では、セザンヌの晩年の肖像傑作からもう一枚、『アンブロワーズ・ヴォラールの肖像』を。
こちらは男性像だが、前の『ロザリオ』と比べ、 (向かって)やや右向きな点、白い襟もとが覗く点、ソファを背にしている点、そして全体の褐色調など、パッと見ではこちらの方がピカソの『ガートルートスタイン』に似ている、と言う人も多いかもしれない。
さて、それにしてもこの肖像画。書物(か何か)を膝の上に置き、さらにその上に軽く結んだ手を乗せ、真横からの強い外光(西陽?)に照らされた沈思するポーズは、明暗の著しいコントラストに浮かび上がる紳士の姿として、大変にドラマチック。前のページの『ロザリオの女』と似て、僕はこの肖像の構成に“ドラマ”を感じずにはいられない。深い陰影のせいもあるのか、やはりここでも、瞳の細密な描写は認められない。
では、ここで、こうしたセザンヌ特有の「瞳の省略」とは対照的な肖像画の傑作として、時代は遡るが、ルネサンス期のラファエロによる肖像画『バルダッサーレ・カスティリオーネの肖像』に登場してもらおう。
ここにみる深い「眼差し」は大変に印象的であり、人間の内面や深さの描写の成功例という点で、これぞ肖像画というもののある理想を示していると思う。ここには、「瞳の描写」というものが、肖像画というジャンルにとっていかに重要なポイントかということも示されている。
(同じ画家の『小椅子の聖母』や、レオナルドの『モナリザ』となると、現実の身近な人間というより、モニュメンタルなムードが前面に出てくるので、ここでは控えた)
要するに、セザンヌの肖像作品は「瞳の描写」だけを注目してみても、人物の“内面”をその眼差しから読み取ることは不可能であり、見る者は、その(卓抜な)人物の構成や配色などの「絵の要素」、あるいは「絵としての全体」に注意が行かざるを得なくなっている。
ところで、セザンヌのこうした「瞳の省略」は、彼の晩年にのみ認められるスタイルなのだろうか。彼は生涯、「瞳」ばかりでなく、人物のほかの部分や背景なども「均質」に描いたのでは…?