外光表現において、あれほど活き活きと見事な成果をみせた印象派の手法が、こと人物の表現となると、ぎこちなくなってしまう -印象派が人物の表現において“苦戦”する理由とは、いったい何なのか?
人物表現は、一般に、克明なかたちの再現が求められる。一方、印象主義は、輪郭やかたちよりも色そのものを重視していこうとする立場であり、両者には自ずと食い違いが生じ、したがって、印象主義が肖像画に不向きなのは当然、という考えがある。
しかしながら、こうした回答はどうも図式的過ぎてイカン…という人も多いかもしれない。そこで、次のような補足説明はどうか…
そもそも、印象主義のように「実体」より「現象」を(ニヒルに)表現することに優れた成果をみせる手法は、私たち人間が求める“人間像” -つまり、ヒトという生き物の内面や個性、あるいは尊厳と呼ばれるもの- の表現には適していない、という考えだ。
もともと、ニヒルという言葉は、ラテン語のnihil=「無」に由来するが、確かに、ものの「かたち」や「本質」よりも「色」や「現象」を優位に置く印象派の姿勢は、世界には「実体」や「価値」など存在しないのではないかという、当時、ヨーロッパを覆い始めていた空気(ニヒリズム nihilism)に通じるものがあるのかもしれない。
事実、印象派は人物ばかりでなく、それまでのアカデミックな画家たちの伝統であった宗教、神話、歴史などといったモティーフ -例えば、下のアングルの絵のようなモティーフには無関心である。
神様を拝んだり、あるいは「今日よりは明日を」というふうに歴史を常に意識し、そこに価値を求めていく立場よりも、「今、この現実のこの瞬間を」謳歌しようとする刹那的な立場である。
印象派が肖像画に苦戦する根本的な理由がそこにあるとすれば、残された道は、印象派の手法とは無縁のところでしか、新しい人物表現、肖像画が成功しないのではあるまいか、ということにもなりかねない。実際、ムンクやクリムトら(象徴派)が、きわめて文学的な人物表現をしたように。
-さて、当時のそうした状況を考えるにあたり、僕にとって最も興味深い仕事をのこした画家が、やはりセザンヌだった。
セザンヌの場合、モネのように印象主義を貫徹するために、モティーフから人物を追放することはない。また、ルノワールのように、ライフワークとして女性像を中心に据え、人肌の質感表現などにのみ印象派の手法を応用する、というのでも勿論ない。あるいは、ムンクやクリムトら(象徴派)のように、文学性・テーマ性が前面に表れてくる立場ともちがっていた。
では、セザンヌの立場とは?
はっきり言えることは、これまで詳しくみてきたヴィクトワール山シリーズと並んで、『ヴァリエの肖像』、『座る農夫』、などの人物肖像に取り組み、水浴図シリーズのような人物群像にすら取り組み、というように -最晩年に好んで取り組んだ3つのテーマのうちの2つは、人物をモティーフにしていたという事実である。
彼は人物の表現でも、最も困難な道を歩いてしまったのか…