セザンヌは自然をこう視た 24.20世紀美術によって汚されたセザンヌ

さて、この『セザンヌは自然をこう視た』も、少し先を急がなければ、いつまでたっても終わらなくなってしまう。

ところで、セザンヌは「近代絵画の父」とか「20世紀美術の産みの親」などと言われる。本人がきいたらビックリするかもしれない。

確かに、その後の美術の流れは―わけても「自然を円筒、円錐、球として扱う」と語ったとされる彼の言葉からキュビスムが生まれ、ピカソやブラックらキュビストたちの探求からコラージュ技法などが生まれ…という風に、さらにフラットになっていく絵画が抽象へと至る軌跡は―セザンヌ作品の放ち続けた魅力なしには考えられなかったにちがいない。

僕たちは、絵の歴史をちょっとかじると、20世紀の美術によって、セザンヌのやろうとしたことがより純粋化された、というふうに理解する。絵の“解説者”たちによって、そこに力強い必然性が存在していたことを文字通り“絵解き”されるからである。

例えば、セザンヌの『水浴図』とピカソの『アヴィニヨンの娘たち』を並べ、このような類似が認められますよ、という具合にである。

水浴図 (部分) 1898-1905 / ピカソ アヴィニヨンの娘たち(部分) 1907

セザンヌが評価され得たのは、ざっくり言えば、後の画家たちが、彼の絵に宿る「多視点の論理」と「フォルムの平面化」の萌芽を継承し開花させたためである、との誤解を招きかねない所以だ。

さらに、その考えに拍車をかける事情がある。 というのは、「空間は歪んでいる」事実を科学的に証明したアインシュタイン。あるいは、(そこまで話が飛ばなくとも!)「ものごとは自由に様々な角度から眺めるべし」という今流の考え方。なるほど、これらはみな、セザンヌが直感し描き出そうとした美学と一致している。 まさしく彼は、“20世紀絵画の父”!

しかし、そんなタイトルをもつ彼の立場に、敢えてひとつの疑問を投げかけたい。

というのは、セザンヌが20世紀の美術に与えた大いなる影響を認めるとしても、その後の絵の歴史によって、彼は逆に“不純にされた”のだと仮定すればどうなるか。それによって初めて見えてくる“純粋な”セザンヌがあるのではないか?

セザンヌが生きていた同時代、彼が目の当たりにした空間を、彼の眼線でながめてみようではないか―このエッセイは、そんなモティーフを出発点にしている。

という訳で、これまでの話を踏まえて、これからいよいよ結論めいた話ができればと思う。

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