ここで、唐突ではあるが、“眼のしくみ”を習ったとき、理科の教科書に出ていた図解を思い出したい。
眼の構造を示す断面図があり、そこでは、肉眼のつくりがカメラのそれと同じであるように説明されている。たとえば、レンズは水晶体、ピントは毛様帯筋、絞りは虹彩、フィルムは網膜……といったふうに。(下図)
さて、確かにこうした説明は、人間がものを視るために必要な条件を示すものとしてはもっともだ、と思う。しかし、僕たちの「生身の眼」が実際にものを視るとはどういうことか考え、あるいはデッサンしたり、絵を描くための充分な条件を示すものでないことは、強調しておきたい。
生身の眼と機械の眼(カメラ)の物理的な共通性をはっきりさせるのはいい。しかし同時に、その違いも明確にしなければならない。そうでないと、「視る」ことについての基本的・根本的な誤解が、絵を描いたり見たり学んだりする上で、手かせ足かせになりかねないからだ。そしてまた、これこそ、セザンヌがモネ(印象派)に飽き足らなかったポイントのひとつだと思うからである。
人間の眼は、たとえば、大勢の人ごみから特定の人を探し出したりするのは、とても得意だ。「部分」を注視するのに長けているという意味では、とても「能動的」なのである。
裏を返せば、人間の眼は「全体」像を捉えるのが苦手である。デッサンの初心者が、しばしばモティーフを「全体」から眺めようとせずに「部分」的にしか視られない理由は、そうした肉眼の特徴ゆえかもしれない。
つまり、肉眼にはカメラの眼とは異なる特徴があって、それをプラス面とマイナス面とから考えれば、「部分」的に捉えようとするプラス面と、「全体」像を捉えられないというマイナス面がある。それは、肉眼のもつひとつの特徴のふたつの側面なのかもしれない。
この事実をセザンヌの絵と結びつけるとなかなか面白いのだが、次に譲りたい。
気がつけば、このページの80%以上は、僕の考えというより、おそらく、ちまたでも時折、耳にする話ではなかろうか。