木俣創志 作品集 |KIMATA SOUSHI WORKS

セザンヌは自然をこう視た 76.『水浴図』にみるアンビヴァレンス

前回は、敬愛するセザンヌに対して大変に無礼な言葉で終わってしまった。

勿論、そう簡単に“失敗作”とか“成功と不成功”の連鎖などと言うことは出来ない。晩年の作品には、まちがいなく、無念にも未完のまま残された絵も数知れないだろうからである。

しかし、いずれにしても、ヴィクトワール山の制作で直面したきわめて“危ういゾーン”を -いつもの彼同様の険しい道程を- 彼は、人物表現においても歩いてしまっている。

そして、もう一方の人物表現である水浴図。

水浴の図は、生まれたままの姿で人々が水浴びを楽しみ、あらゆるしがらみを脱ぎ捨て解放された理想郷をモティーフとする。

誰にでも明確に判るセザンヌの水浴図の特徴は、やはり、まず「ディテールの省略」が著しい点だ。

水浴する人々をはじめ、あらゆるモティーフの克明な描写が控えられ、それによって、巨大な「セザンヌ・トライアングル」がより明瞭に示唆され、作品全体の構造がハッキリと浮かび上がってくる、その仕組みについては改めて言うまでもない。

その「ディテールの省略」には、しかしながら -肖像画シリーズに認められた様な- 水浴する人物への内面的な興味をかきたてる、といった機能はない。むしろ、水浴する情景への「懐かしさ」を喚起するはたらきを僕はとくに感じる。

つまり、水浴図の「ディテールの省略」は、「遠い記憶の曖昧さ」に通じるものを強く喚起させるのである。

大 水 浴 図   1898-1905

古代ギリシアで語られた「理想(イデア)の世界」への憧れ、あるいは、アルカディア的世界への憧憬とでもいうのだろうか。その記憶は、はるか過去に遡り、個人の記憶を越え、人類の遠い記憶にまでつながっている様な―。

このシリーズ特有のモニュメンタルな構成。そして、ここが何処か、この裸体の人間たちがが一体誰なのかを特定できないもどかしさ- 。こうした事情が「過去」を遡るような“曖昧さ”でありながら、私たち人類の「未来」を予視するような“曖昧さ”にも繋がっている -そうしたアンビヴァレンスが、ここでも実現している。

それにしても、何故、彼は水浴の図を描いたのだろう?

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