木俣創志 作品集 |KIMATA SOUSHI WORKS

セザンヌは自然をこう視た 73.シャトー・ノワールが描き込まれたもうひとつの理由

サント・ヴィクトワール山とシャトー・ノワール 1904-06

抽象化・物化を推進しながらも、それと同時に、抽象化・物化からの解放、具象化の方向をも力強く推進する、そんなアンビヴァレントな機能が、「シャトー・ノワール」に込められているというような話だった。

さて、これとほぼ同じことが、『庭師』の「壁」についても言える。理由はこうである。

庭師の傍らの「壁」は、確かに“無表情の表情”を湛えている。

庭 師 1900-06

しかしながら、別の見方をすれば、もしも庭師の傍らに“壁”が無ければ、結果、ここに座っている人物は、血の通わない物質のような人間のままになってしまう。というのも、この無機的・無表情な“壁”が人物の真隣に存在することで、“人物の無表情さや堅固な構築感”が相対的に緩和され、モデルは人としての息づかいを始めるからなのだ。

人間の眼の不思議、とでも言うべきか- リスの横に置いたカブトムシは、大変にゴツい存在であっても、おもちゃのロボットの横に置けば、しなやかな曲線美をともなった生命感みなぎる存在となる。

同様に、ヴィクトワール山にも -その幾何学的な「三角形」のかたちに- 彼は、温かな血液を流したかったのではないか。だから彼は、わざわざ、物質的な人工物を、角張ったタッチで山の隣に描いたのである。

おそらく、数々のセルフポートレイトよりも何よりも、サント・ヴィクトワール山こそ、彼自身を投影したモティーフだったからではないだろうか…

さて、このようにみてくると、(だいぶ前にすでに触れていた内容も含めて)「シャトー・ノワール」にはじつに様々な画家の意図・想いが投影されており、ひと通りには解釈できぬ様々な感情を、みる者にもたらす存在であることが判る。

しかし、いずれの解釈においても、「シャトー・ノワール」について明快に言い得ることがある。

それは、『サント・ヴィクトワール山とシャトー・ノワール』に認められる作者の意識が、抽象化し、物化していく画面の強烈な自覚であり、その即物的な強さや“20世紀的”な調和を敢えて拒否し、そこに“破綻をつくり出そうとする意志”だったという点である。

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