抽象化・物化を推進しながらも、それと同時に、抽象化・物化からの解放、具象化の方向をも力強く推進する、そんなアンビヴァレントな機能が、「シャトー・ノワール」に込められているというような話だった。
さて、これとほぼ同じことが、『庭師』の「壁」についても言える。理由はこうである。
庭師の傍らの「壁」は、確かに“無表情の表情”を湛えている。
しかしながら、別の見方をすれば、もしも庭師の傍らに“壁”が無ければ、結果、ここに座っている人物は、血の通わない物質のような人間のままになってしまう。というのも、この無機的・無表情な“壁”が人物の真隣に存在することで、“人物の無表情さや堅固な構築感”が相対的に緩和され、モデルは人としての息づかいを始めるからなのだ。
人間の眼の不思議、とでも言うべきか- リスの横に置いたカブトムシは、大変にゴツい存在であっても、おもちゃのロボットの横に置けば、しなやかな曲線美をともなった生命感みなぎる存在となる。
同様に、ヴィクトワール山にも -その幾何学的な「三角形」のかたちに- 彼は、温かな血液を流したかったのではないか。だから彼は、わざわざ、物質的な人工物を、角張ったタッチで山の隣に描いたのである。
おそらく、数々のセルフポートレイトよりも何よりも、サント・ヴィクトワール山こそ、彼自身を投影したモティーフだったからではないだろうか…
さて、このようにみてくると、(だいぶ前にすでに触れていた内容も含めて)「シャトー・ノワール」にはじつに様々な画家の意図・想いが投影されており、ひと通りには解釈できぬ様々な感情を、みる者にもたらす存在であることが判る。
しかし、いずれの解釈においても、「シャトー・ノワール」について明快に言い得ることがある。
それは、『サント・ヴィクトワール山とシャトー・ノワール』に認められる作者の意識が、抽象化し、物化していく画面の強烈な自覚であり、その即物的な強さや“20世紀的”な調和を敢えて拒否し、そこに“破綻をつくり出そうとする意志”だったという点である。