木俣創志 作品集 |KIMATA SOUSHI WORKS

セザンヌは自然をこう視た 72.『水浴図』を読み解く鍵となるシャトー・ノワール

サント・ヴィクトワール山とシャトー・ノワール 1904-06

『サント・ヴィクトワール山とシャトー・ノワール』。

この絵の魅力を解き明かすことが、同時期の水浴図を探る重要な鍵と考え、「シャトー・ノワール」に注目して話を進めてみる。

突然ではあるが、ヴィクトワール山に登場する「シャトー・ノワール」から受ける印象が、『庭師』に登場する(人物の左にある)「壁」の与える印象と、どことなく似ているのはなぜだろうか?

まず思いつくのは ―『城館の入口』作品で触れたことと同様― かたちの定まらぬあてどない「有機的」筆の動きに対し、建物や壁といった「無機的」物質の硬質な存在感がひとつのコントラストの体(てい)をなし、劇的で厚みのある絵の全体観が形成されている点だ。

確かに、両作品とも、「シャトー・ノワール」と「壁」以外は、大変に「有機的」で暖かなタッチでかかれている。もっとも、そうした作品はセザンヌに多々みられるが…。(下の絵もそうだ)

―「有機的」タッチと「無機的」タッチのコントラスト。

その点をもう少し掘り下げると、次のようなことも言えるのではないか。

以前、『庭師』に登場する「壁」を、人物と同様の“無表情の表情”というふうに形容した。確かにこの「無機的」な「壁」は、庭師の“無表情さ”をシンボリックに代弁するエコーの様でもある。

その意味で、ヴィクトワール山に登場する「シャトー・ノワール」の「無機的」なムードもまた同様に、画家のいかなる問いかけにも答えてくれない、寒々としたこの世のシンボルであるかの様。

…事実、『サント・ヴィクトワール山とシャトー・ノワール』でも、物化してゆく画面に拍車をかけるかのように、「無機的」なコンクリートが“目立ちながら無表情に”出現している。そして、人が住んでいるかもわからぬこの建物の存在によって、人間の不在感・孤独感がいっそう強調される気がしてくるからである。

しかし!

大変に興味深いことに、たとえそうであっても、一方では、この絵に漂う寒々としたムードは、このオレンジに輝く建物によって救われてもいる。確かにこの絵は、この建物がなければ、ピカソの“青の時代”の画面の様に憂鬱な、そして即物的な、冷たい画面に覆われてしまうからだ。この点については、すでにCGを見ながら述べた通りなので繰り返さない。

こうしてみてくると、要するにこの「シャトー・ノワール」は、はなはだシンプルなその表現にもかかわらず、一方で、セザンヌ流の抽象化・物化(もしくは人間不在感)のシンボルでありながら、他方では、抽象化・物化からの解放、すなわち具象化の機能をも合わせ持っており、そんなアンビヴァレントな存在であることが見えてくる。

いつか述べた内容と、少しかぶってくるが…。

ジュールダンの小屋 1906

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