例えば、河原で川遊びを楽しんでいたとき、大変美しい岩肌を見つけたとする。
その美しい岩肌の一部を切り取り「抽象画」として展示したい、というような衝動・発想を抱いたことはあるまいか。美しい木の葉の紋様や、砂丘に出来た風紋、古い教会の壁の味わい深い質感など、可能であればそのままその一部を切り取って持ち帰り、抽象画として展示したいと思う人がいても不思議はない。
また、そうした自然界の美や人工物の心地よさにハッとして、その感動をヒントに「抽象画」制作のきっかけを得る人も少なくないし、そんなとき、画家は自分には到底表現することの叶わぬ自然の造形美に打ちのめされ、また自身の非力を嘆き、抽象画家であることの業に苦しむのである。
多くの抽象画家が、日常生活で思いがけない事物に閃きを経験する大きな理由は、「抽象画」に“人や物語などの具体的なイメージがない”からである。同じ理由から、「抽象画」は、(絵である)「具象画」よりも、具体的な“物”に近いと言われることがある。
絵画の考え方に「抽象=物」、「抽象化=物化」という(やや乱暴な)観方があるのもそのためだが、その意味で絵を著しく抽象に近づけたセザンヌは、絵画を“物化”したと言えるのかもしれない。
勿論、この考えに反発する抽象画家も多いが、ともかく一面の真実はついている。セザンヌが、「リンゴが動くか!」と、じっとポーズ出来ないモデルを嗜めたエピソードはあまりにも有名だが -それが事実であるにせよ、そうでないにせよ- モデルを、ある意味で“物” と同等のレヴェルで扱い、“物化”しようとしたセザンヌの一面を、確かに言い当てている。事実、20世紀に花開いた強固な「抽象画」の即物性・物質性は、セザンヌの影響無しに考えることは出来ないからである。
しかし、繰り返し述べてきた通り、そうした一面とともに、彼の芸術を考える上でより重要な点は、ついに彼が完全な抽象へと至らなかった事実である。「具象画」的な眼差しを置き去りにする発想は彼に無く、「抽象画の発明」という誘惑にさえ興味を抱かなかった点だ。
むしろ彼が、絵画の“抽象化”を力強く推進しながらも、同時に、単なる“物化”に対しては激しく抵抗し、果敢な戦いを挑んだこと、そして -抽象化の推進と、物化に対する戦いという- その双方を自身の絵画制作のなかで引き受け、何事かを成就しようとしたこと。僕は、これこそ彼の最も注目すべき仕事と考え、また、晩年のセザンヌから受ける感動の源となっている。
どういうことか。