そして、これらの絵を「具象画」として眺めた場合、彼の作品としては、どれも抽象化がかなり進んでいる、という印象を持つ。
一口にセザンヌの「三角形の目立つ絵」と言っても、表現はじつに様々である。『トロワ・ソーテ橋』では、弧のかたちが強調されていたりもする。
また、ここに載せたヴィクトワール山シリーズもかなり抽象化が進んでいるのだが、(前回見た)水彩による水浴図などは、タイトルがなければ“水浴図”と判断できないほどに抽象的だ。
要するに、晩年の絵に見え隠れするセザンヌ・トライアングルたちは、「救い」「安定」を求める彼のこころの投影であると同時に、彼の突き進む「抽象」世界、純「造形」世界の極限のイメージでもあり、その双方の無意識的なシンボルだったと僕は考える。
そんな観方をしてゆくと、『大水浴図』の巨大な「三角形」のもとに描かれた裸婦たちもまた、「安定」を打ち消すためのひとつのエレメントだったのかもしれない。