木俣創志 作品集 |KIMATA SOUSHI WORKS

セザンヌは自然をこう視た 44.「睡蓮」と「ヴィクトワール山」の相違するもの

そもそも「絵をみる」とはどういう営みなのか?

例えば下の絵をみて、「松の木や橋、夕刻の光が素晴らしい、私はこういう景色が大好きだ」と賞賛したとしても、これは“景色”を見ているのであってセザンヌを見ていることにはならない。

サント・ヴィクトワール山 1885-87

逆に、そこからそうしたイメージを取り除いて、色とかたち、絵肌などのいわゆる「絵の要素」、それらの純粋な配列のみを注目するのは、セザンヌを見ることになるのか。これもちがう。

セザンヌを見るとは、とどのつまり、セザンヌがどのように外界を切り取り、解釈し、どのように外界の形状に眼を這わせたか、「絵の要素」に導かれてその「眼線の動き」を追体験することである。

そして、彼と同様「平面」上で言わばその視覚的“遊び”を楽しむことであり、絵を見る喜びとはそういうことが基本となっているのだろう。

  -そんなことは当たり前だ! それに、そういう話はモネや他の画家の絵を眺める場合も同じであろうが、という叱声が聞こえてきそう。

ところが、である。

とくにセザンヌが面白いのは、彼の筆の勢いが激しければ激しいほど、ディテールの描写が削がれればそがれるほど、つまり、彼の絵をみて純粋な抽象世界・造形絵画への予感、意志、爽快感…など等といったものを力強く感じれば感じるほど、具象画の武器である感覚  -外界の形状に眼を這わせ、絵のなかの具体的な事物を凝視しているが如き感覚- がますます力強くもたらされ、「能動的な眼線」の動きを要求してくる点なのである。

また逆に、彼の絵では、そうした具象画の属性を発揮すればするほど、抽象画のもつ構成感・即物的な堅固さが力強いものとなってゆき、あるいは、そこへ向かう造形の意志を力強く感じさせるものとなっていく、という風に、一方の属性が他方の属性の存在理由になっている点がユニークなのだ。

同様な話を、以前、晩年のヴィクトワール山シリーズを例にとって述べた記憶があるが、晩年になるにつれて  -例えば、上の(若い頃の)作品と比べてみても- 不思議なことに、ますますその傾向が著しくなってくるのである。

「具象画」の属性と「抽象画」の属性の、きわめて激しく緊密な関係。その類い稀なる“アンビヴァレンス”(ambivalence 反対感情の両立)を実現している絵画-。

勿論こうした言い方が出来るのは、「抽象画」という考えが生まれて以降、つまりセザンヌが亡くなってからということになるが、そうしたことのいっさいを実現している要因こそ、セザンヌ特有の「能動的な眼線」ではないか、と僕は考えている。

それにしても、そもそも「能動的な眼線」とは何なのか?

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