木俣創志 作品集 |KIMATA SOUSHI WORKS

セザンヌは自然をこう視た 43.「睡蓮」と「ヴィクトワール山」に共通するもの

モネとセザンヌ。

この二人の画家の最晩年の共通点と相違点を、あれこれ書きと留めてきたが、もう少しその点をみていきたい。

モネ晩年の睡蓮シリーズには、セザンヌ晩年のヴィクトワール山シリーズと同様に、「均質化=平面化」と眼線の「収斂=スポット」の共存、そして「奥行き」感と「平面」感の共存が認められる、というような話だった。

二人ともに、その画面が「平面化」していくばかりでなく、眼線の「スポット」と「奥行き」という正反対の要素もしっかり保持されている点に、「抽象化」していく絵画へのある種の“抵抗”のような姿勢・感覚が共通して認められるのではと、そんな気もしてくる。

しかし、それにしても、その料理の仕方は二人の天才のあいだで何と違っていることか!

例えば、画面の「平面化」の仕方。

セザンヌのヴィクトワール山シリーズの場合は - ざっくり言えば- 山も、それをとりまく空気も、木々も大地すら、全てが力まかせに一旦細かく粉砕された後に、平らにのばされたかのような印象を与える。

デ・ローヴから見たサント・ヴィクトワール山 1904-06

一方、モネの場合は、自身の「平面化」への興味が、そのまま水面というモティーフの選択、平面的モティーフの発見へと至っている。つくり出された「平面」性ではなく、モティーフ自体が持っていた「平面」性である。

モネ  睡蓮 1907

では、眼線の「収斂=スポット」のあり方はどうか。

すでにみてきた様に、ヴィクトワール山シリーズの「スポット」の数々  -「山頂」、「建物(シャトー・ノワール)」、(左の作品では)「道」といった「スポット」の数々は、それ以外の他の事物が極力「平面化」されたり、他とのコントラストが強調されたりすることによって、力強い牽引力で私たちの眼線を釘付けにし、そこに眼線を凝らしているかのような感覚を及ぼす。そして、そこに僕らはセザンヌの食い入るような眼差し、一点に凝集された「能動的な眼線」を感じとる。

一方、モネの睡蓮の葉や花々といった「スポット」からは、むしろ“眼線の安息所”、あるいは、“小洒落たアクセント”といった印象を受ける。それはつくり出された「スポット」だからではなく、モティーフ自体がはじめから備えていた「スポット」だからだろう。

何故こうした違いがでてくるのか。モネとセザンヌ  -その最晩年の、そもそもの違いとは何なのか。

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