木俣創志 作品集 |KIMATA SOUSHI WORKS

セザンヌは自然をこう視た 33.山を前にしたときの「眼線の動き」

「粗っぽく」かかれた画面のなかに、「密に」かかれたタッチが存在する理由。

それは、雄大な景色を前にして、その「密に」かかれた部分(=山やふもと)へと収斂してゆくセザンヌ自身の「能動的な眼線の動き」を表現している、それが、この作品のきわめてシンプルなテーマのひとつである、というような話だった。(下の左の『ヴィクトワール山』)

しかし、僕以上にセザンヌを好きな人は、ここで異論をとなえるかもしれない。

―いや、ちがう。この絵の「タッチの粗密」は、単に、ものの“遠近”を示しているにすぎないのだ、と。

つまり、山やふもと(画面中央)の辺りのタッチが小さく緊密にかかれ、山をとりまく空気(上空)や下方に広がる大地のタッチが大きく粗くなっている理由は、遠くにある木々が小さくかかれ、近くにある木々が大きくかかれているからに他ならず、セザンヌの「眼線の動き」とは無関係である、と。

なるほど、この意見は説得力がある。

しかし、この考えは常識的すぎる!

では、同じ頃にかかれた同タイトルの(下の右の)『ヴィクトワール山』をみてほしい。以前、この絵も見ているはずだが…。

この作品でまず眼に飛び込んでくるのは「明暗のコントラスト」だ。

そして、ここでは左の絵と比べ「タッチの粗密」は認められない。もし左の『ヴィクトワール山』に認められる「タッチの粗密」が“遠近”を表したものだとすれば、右の『ヴィクトワール山』でも同様の「タッチの粗密」が認められないのは、やはり不自然だ。

デ・ローヴから見たサント・ヴィクトワール山 1904-06

むしろ、「明暗のコントラスト」にのみ注意を向けさせるために、わざとタッチの大きさをそろえたかのようでもある。この作品を眺めるとき、僕たちは、いや応なくタッチの(大小ではなく)明暗だけを注目せざるを得なくなり ―ちょうどスポットライトに照らされたステージを眺めるときのように― 明るくかかれた山やふもとの辺りへと眼線を向けてしまうからである。

さて、こうしてみてくると、両作品ともに「山の方へと収斂していく眼線の動き」が重要なテーマのひとつであり、左の絵ではそれが「タッチの粗密」によって表現され、右の絵ではそれが「明暗のコントラスト」によって試みられていると考えた方が、自然ではなかろうか。

右の『ヴィクトワール山』に光る斜めに伸びる“道”。この“道”の明るさが強調されているのも、―若き日の“道シリーズ”で、遠方に伸びゆく“道”を追いかけたのと同様の― セザンヌの「眼線の動き」が、この作品では、道から山へと向かってゆく「明るいトーン(調子)」として表現されている、と僕には感じられてならない。

…そんな馬鹿な、と思っているあなた。一点を凝視しつづけた際、その周辺がしだいに暗くなっていく感覚を経験したこと、ないだろうか?

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