木俣創志 作品集 |KIMATA SOUSHI WORKS

セザンヌは自然をこう視た 32.ヴィクトワール山、タッチの粗密の意味

デ・ローヴから見たサント・ヴィクトワール山 1904-06

さて、唐突ではあるが、上の絵のような風景 ―“展望台からのぞむ彼方の山”といった風景の現場に行き、まず肌で感じることは何だろうか。

それは、自分の立っている地点と遥か彼方に頂く山のあいだの、雄大な空気の厚み、あるいは自然の懐の深さのようなものではないだろうか。

……と、そんなことも念頭におき、セザンヌの最晩年に「具象画の属性」と「抽象画の属性」の両方が、一体どのようにして“ひとつの絵のなかで同時に追求”されたか ―この無謀な冒険の謎を解明していきたい。前回のつづきである。

ただし、あれこれ注目していくと、例えば、前に述べた“複雑で名状しがたい感情”の正体は何か? ―等々きりがない。 そこで、ここではひとまず、絵に残された「タッチ(筆触)」にだけ話題を絞りたい。というのも、この作品では、画面を縦横無尽に駆けめぐるアラ・プリマ(=じか描き)のタッチが、ひときわ鮮やかな印象を与えるからである。何やら、“かきはじめ”or“かきかけ”の絵の様でもあるが、アラ・プリマの魅力こそ、この絵の重要なテーマであることはすぐ伝わってくる。

ともかく、いちおう完成作であるとの前提で、まずは「タッチの粗密」を注目してみよう。すると、山やふもと(画面中央)の辺りのタッチは小さく緊密にかかれているのに対し、山をとりまく空気(上空)や下方に広がる大地の描写は、幾分大きく粗くなっていることに気づかないだろうか?

―この「タッチの粗密」は何を意味するか?

ここで、“セザンヌの筆の動きは私たち人間一般の眼線の動き”である、という以前の仮説を思い起こしたい。

たしかに僕たちは、こうした雄大な景色を前にして、山だけを視るでもなく、大地だけを視るでもない。その両者の“関係”をくい入るように視つめ感動している。そしてとどのつまり、山下に広がる大地から山のふもと、そして頂きへと収斂していく自らの「能動的な眼線の動き」を認めないわけにはいかないはずだ。

この作品に認められる「タッチの粗密」は、そんな「眼線の動き」を体現している、という解釈もまた面白いと思う。

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