さて、前のページでは、“なぜ、セザンヌは「抽象」へ至らなかったか?”という話で終わってしまった。
用意した答を結論から言うと、彼の仕事が、「抽象画」の属性と「具象画」の属性の、その両方をひとつの絵のなかで同時に極めていこうとする試みだったからなのである。
―そんなことが可能なのか?
たしかにセザンヌの絵は、一見すると「抽象化」だけが推し進められているように感じられる。しかし、じっくり眺めていくと、推し進められているのは「抽象画の属性」のみならず、「具象画の属性」の方も同じくらいしっかりと極められていることに気づかされる。
以前、僕は、セザンヌの絵の特徴として、「後年の作品では、画家の眼前に存在したモティーフたちに眼を這わせているかのような印象を受ける」と述べた。
なるほど、これはまぎれもなく、「具象画」の性能が実によく発揮された好例として ―つまり、「絵の世界と現実世界との対比」が、とても濃密に活き活きと実現された好例として― セザンヌを言い表した言葉だったはずだろう。
ヒトの血液型で喩えてみる。
いま、A型を「具象画」の属性、O型を「抽象画」の属性とする。すると、要するにセザンヌの晩年の絵は、「AOタイプのA型」なのである。AAタイプであれAOタイプであれ、どちらにせよA型(ここでは「具象画」)を示すということなのだ。
そもそもセザンヌには、「具象画」への興味を断ち切って「抽象画」への興味だけを追及しようとする意志がなかった。とすれば、最後まで「純粋な抽象」に至らなかったのは当然である。
―どうしてそう言い切れるか? それは、彼の作品にそう描いてあるからである。
それを実証すべく、上の『デ・ローヴから見たサント・ヴィクトワール山』をみていく。
前回の同じタイトルの絵と同様に、この頃の(最晩年の)ヴィクトワール山・シリーズは、愚直なまでにシンプルにかかれている。ところが、にもかかわらず、複雑で名状しがたい感情を見る者に訴えかける。表現のシンプル、ストレートさ。そして、絵の与える感動と表情の襞の複雑さ。そのコントラストが、まず不思議なインパクトを与える作品。
…面白くなってきたところでいつも時間切れ。