僕たちが“眼を皿のようにして”ものを見つめるのはどんな時だろうか。
画集でしか見ることが叶わなかった作品のオリジナルを、ついに眼の前にしたとき、あるいは、モデルやモティーフをじっくり眺めているとき。レストランで、さあ、これから食べるメニューを選ぼうというとき、品揃えの多い店で買い物をしているとき、人ごみから知人を探すとき、久しぶりの人と再会したとき…等々かしらと思う。
ところで、今夜のこと、僕は仕事場でこんな経験をした。
絵を制作中にフーカスグリーンを使いたくなり、グリーンの絵具のチューブの山からその色を探そうとした。眼を皿のようにして色を探しながらチューブをかきわけるが、なかなか発見できない。
そのとき、こんなふうに思った。もしグリーンのチューブの山「全体」、つまり自分の眼に映る対象「全体」に対して、“同時に同等の強い注意力でまんべんなく”眼線を注ぐことができたなら、すぐに目当てのチューブが見つけられるはずだろう。ところが人間の眼は―たとえば全焦点カメラのように―いっぺんに対象「全体」に眼線を注ぐことができない。「部分」的に眼線を注ぎ、それを移動させることで目当てのチューブを探すしかない。
そうして実際、僕がフーカスグリーンを探そうとして、より「部分」的に眼を凝らせばこらすほど―「探すチューブにもれがあってはいけない」というわけで―対象「全体」にくまなく眼線を注ごうとしていることに気づいた。こうして、いつものようにチューブは見つかったのだが。
ところで、僕がチューブを探していたときの眼線は、大変に「能動的」だったように 思う。酒屋で愛飲酒を探すときなどと同じだ。
このエッセイの最初で、「能動的positiveな眼線」ということを言ったのだが、「能動的な眼線」とは、つまり(チューブを探していた)今宵の僕のように、「部分」的に眼差しを注げばそそぐほど「全体」が気になり、逆に「全体」を把握すればするほど、ことさら「部分」に眼を這わせる、というような眼線のことではあるまいか。
さて、ここで前に話したセザンヌ作品の特徴を思い起こしたい。すると、次のようなことに気づく。
彼の絵に認められるタッチや塗り残し。それらの「部分」はたえず「全体」感を喚起させ、逆に「全体」の構成が厳格になればなるほど、「部分」は勝手気ままに眼線を走らせようとする仕組み。大変面白いことに、そのメカニズムが、上に述べたような、私たち人間が対象に向けて強く眼線を投げかける場合の「部分」と「全体」の有り様―そのふたつのきわめて有機的な関係―にも当てはまるのである!