木俣創志 作品集 |KIMATA SOUSHI WORKS

セザンヌは自然をこう視た 8.「肉眼で視る」とは

肉眼の特徴を、「部分」的に捉えようとするプラス面と、「全体」像を捉えられないというマイナス面に分けて考えている。それをセザンヌに絡めて考えるとどうなるか?

「全体」像を捉えられないという肉眼のマイナス面を補い、対象を「全体」から捉えようとするための訓練。それが、デッサンの重要な目的のひとつであるとすれば、一方、対象を「部分的」・「能動的」に捉えようとする肉眼のプラス面。それを、自己の創作の武器にしたのがセザンヌだった、とも言えるかもしれない。なぜならセザンヌは、僕たちがふだん眼前の対象物に眼を這わせるプロセス、部分的に眼差しを注いでいるプロセスそのものを、きわめて純粋に取り出してみせてくれたのだから。

5人の水浴の女たち 1877-78

「モネは単なる眼に過ぎないが、すばらしい眼だ」というセザンヌの言葉。その「単なる眼」というのは、その意味で“機械の眼”、カメラの眼であり、「すばらしい眼」というのは“色彩によって「全体」像を瞬間的に捉えることに優れた眼”というふうなニュアンスに解釈しても面白いと思う。

肉眼で視るとは、光がカメラに入ってくるときのような「受動的」な立場を前提としながら、同時に、こちらでも目的に合うように「眼差しを注ぐ」ということをしている。確かに、認識するとは、単にその素材が与えられるだけでなく、それらをこちら側で構築することによって初めて成立する、という話は(美術以外の分野でも)いたるところで耳にする。

この「こちら側で構築する」という営みは、認識の素材が与えられてから認識へといたる一連の流れの様々な位相で営まれているはず。したがって、たとえば、鏡が物を映すというような単純なものではなかろう。が、「こちら側で構築する」というモメントが存在することだけは、確かなのではあるまいか。なぜなら、もしもそうでないと仮定すると、大変におかしなことになってしまうからだ。

例えば、―話を美術に限れば―もしも人間の眼が初めからカメラなどと同じようにものを視ているとしたら、極端な話、すべての人は初めからかたちの全体像を正確に捉えられるはずであり、デッサンを学ぶ必要はなくなってしまう。また、デッサンは、「ものを正確に視る」ための訓練、「観察する」ための訓練というよりも、単なる「手わざ」の訓練―鉛筆、木炭の持ち方や、線の走らせ方など―いわば「技術」訓練に過ぎないものとして片付けられてしまう。(そもそも僕たちの視覚というものは―ビギナーのデッサンにみられる通り―先入観と観察不足に満ち溢れており、とてもイイカゲンである)

何やら、セザンヌを通して、基礎デッサンと絵の違いや共通性、あるいは、カメラと肉眼の違いや共通性など、わかりにくかったけれども重要なテーマの輪郭が、少し鮮明になった気がする。 もっと、セザンヌのことを書きたかった。また脇道に逸れてしまった…。

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