木俣創志 作品集 |KIMATA SOUSHI WORKS

セザンヌは自然をこう視た 1.輪郭線が途切れている理由

ついさっき眼を覚ましたところ…。

昨日は安酒をのみすぎたせいか、頭がまだふらふらする。うとうとしながらベッドのなかで眼をこすって室内を眺めると、(ちょうど映画などでフェード・インしたときのように) 世界が視覚として立ち上がった。 唐突ではあるが、その時、これこそセザンヌが絵で表現しようとしたものではないか、と思った。

セザンヌの輪郭線がとぎれとぎれに切断されている理由は、よく言われるように、ヘタクソだからとか、一本の線に決められないのは、本当は気が弱かったから―などということではない。とぎれた線は、活きた生身の人間の眼がもののかたちを追いかけることが、こういうふうにとびとびに、ものの輪郭をたどることなのだということを筆触によって表現しているにすぎない。

それと同じように、たとえば、セザンヌの絵にディテールの描写がみられない理由は、彼と同じくポスト印象派の、たとえばゴッホのように激しく感情を表出するための筆勢の必要から、などといったことばかりでなく、我々人間がどのように外界の形状に眼を這わせているかを明瞭にしたかったからではないか。

(そんなことを考えながらコーヒーをいれ、ぼんやりした頭で、今この文章を打っている)

セザンヌの絵は、「能動的 positiveな眼線」によって獲得された世界であると常々感じてきた。僕は、彼にとっての造形的なエレメント、あるいは彼の作品をかたちづくる美的なもののエレメントは、「与えられた」のではなく、彼はそれを「奪いとった」のではないか、と考えている。それは、いわば造形的な意志をともなう在り方だ。


花瓶(部分) 1885-88  (水彩)

昔、何かで読んだのだが、哲学者のハイディガーによれば、解釈とは「暴力で奪いとる」作業だとのこと。それと同様の精神のはたらきが、セザンヌの場合にもあるのではないか。というのも、セザンヌの絵では自然をどのように「視る look」かが問われているからである。

 これと対照的なのが、セザンヌとほぼ同年代の印象派のクロード・モネかもしれない。セザンヌが「能動的な眼線」であるとすれば、モネの場合は、さしずめ「受動的 passiveな眼線」によって獲得された世界であろう。モネの作品では、自然がどのように「視える see」かが問われているからだ。

なにやら今日は、セザンヌの話なってしまったが、これも、きっかけは昨日ののみすぎのせいかもしれない。しかし、そんなことを抜きにしても、僕は最近ますますセザンヌに惹かれ、興味を抱いている。これはどうしようもない。

なぜセザンヌの絵は、こんなにも多くの画家たちを魅了してきたか。それについての僕の考えを、とくに晩年の作品に的をしぼり、これからしばらくのあいだ書きとどめておこうと思う。

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